椎名林檎『罪と罰』は「幽霊」の曲である。
このnoteでは、椎名林檎さんの名曲である「罪と罰」の歌詞を読み解いてみたい。いわずと知れた名曲であり、最近ではAdoさんにカバーされたりもしている。あの退廃的な曲の独自性は一体どこからやってきているのか。
僕の解釈によれば、あの曲は街を漂う幽霊の歌である。おそらくは不倫などの道ならぬ恋の果てに事故死した女性の地縛霊の、悲痛な叫びである。不倫の罪悪感が、あの曲に退廃感を与えているのではない。不倫という罪による罰の中にいる、死者の無限の苦しみが、あの曲を退廃的なものとしている。
突拍子もない理解だが、そのことについて説明していきたい。
1. 罪と罰の2つのパート
「罪と罰」というタイトルを聞いて連想するのはまず、歌詞が罪パートと罰パートという2つのパートに分かれているのではないかということである。罪があって罰が生じるのだから、この2つは順番に書いたほうがわかりやすい。
実際、この曲の歌詞はそのように2パートに分かれている。
具体的には、歌詞のうち地の文で書かれている箇所が「罰」で、おおよそかぎ括弧でくくられる部分が「罪」についてのパートになっている。このことはまだちょっとわかりづらいかもしれないがおいおい説明していく(歌詞内のかっこは原文のまま)。
2. 違和感のあるAメロの描写
曲の歌い出しは次のように始まる。
この歌い出しの歌詞はとても印象的で、退廃的な朝の光のさす情景の描写にも見えるのだが、よく読んでいると違和感がある。
どういうことか。
まず一文目に「頬を刺す 朝の山手通り」とある。
一見、まるで何か朝の強い光が、飲み明かした身体を刺すように照らしているような情景をイメージさせる文章にみえるのだが、よく読んでみると何が頬を刺しているのか、具体的には書かれていない。
朝の光が頬をさす、とはどこにも書かれていないのである。
受け手は自然と朝の光を想起するだろうが、極論、ガラスが頬を突き刺している可能性もある。この理解は突拍子もないようだが、後半の理解とも繋がってくるので、ここで刺さっていたのはガラスかもしれないし朝日の光かもしれない、と思っておいてもらいたい。
次に「今日もまた足の踏み場はない 小部屋が孤独を甘やかす」。この表現にもまた、強い違和感がある。
一見、散らかった小さな乱雑な部屋をイメージするが、「今日もまた」足の踏み場はないのである。ここらあたりで「足の踏み場がないというより、そもそも足がないんじゃないの?」という気になってくる。足がなければ、足の踏み場は世の中のどこにもない。つまり幽霊である。
すると「煙草の空き箱を捨てる」の描写が不思議と際立ってみえてくる。幽霊の食べるものは「お香」である。つまり煙を食べて暮らす。生前退廃的な暮らしをしていた彼女は、煙草という煙を食べて暮らしている。
幽霊は生前の行いが良ければ、良い香りを食すことができる(香食、という)。それが安っぽい煙草の煙を食べて暮らしているわけだから、生前の行いは良くなかったということになる。つまり彼女には罪があり、今は罰の時間の中にいるのである。
まだかなり半信半疑な感じもあると思うが、もう少し後半でこの描写の意味は決定的になってくるので、引き続き読まれたい。
3. 「罪」のパートとしてのサビ
次にサビへ進む。
この部分は彼女の罪についての描写である。
これは、主人公の幽霊の過去の経験の想起なのだろう。道ならぬ恋に溺れた一人の女が、その相手に投げかけている言葉である。
「身体を触って 必要なのは是だけ認めて」という表現は、その後身体を失って幽霊となる描写と対比的である。
「あたしの名前をちゃんと呼んで」「身体を触って 必要なのは是だけ認めて」とあるが、これは幽霊になってからもおそらく叶えられていないことである。彼女は生前=罪の中にいるときにも、死後=罰を受けても、名前も呼ばれず、身体に触れてももらえないという、彼女の物悲しさが際立つ描写となっている。
次にAメロに戻る。
ここからまた罰についてのパートである。
さっきまでの罪パートでは自分の声を聞いてくれる人=相手がいたのだが、この場面では一転して、周りには誰もいない。
「愛している」はお互いを思い遣って放つ言葉のはずである。それを「独り」で泣き喚きながら叫んでいるのだから、この女性の独りよがりな性格がここで表現されている。
そして「改札の安蛍光燈は 貴方の影すら落さない」。
この部分が、歌詞の主人公が幽霊であることを決定的にしている。
どういうことか。
改札の安蛍光燈は、「貴方の影を落さない」のではない。「貴方の影すら落さない」のである。この部分は次のように補完するとわかりやすいだろう。「(私の影はもちろん落としてくれないのだが)貴方の影すら落とさない」。
改札に自分がいるのであれば、自分の影はそこに落ちているはずである。しかし主人公は幽霊だから、当然に彼女の影を蛍光燈は落としてくれない。その蛍光燈は、私の影はもちろんのこと、「貴方」の影で「すら」落としてはくれないのである。つまり彼女は愛しの相手に会えないままなのだ。
「夜道を弄れど虚しい」とあり、冒頭の「小部屋」という表現や「夜道」という表現などはまるで情景描写のように読めるのだが、おそらくこれは道ならぬ恋や女性の孤独を象徴するイメージとして女性器をモチーフとした表現であるだろう。
「小部屋が孤独を甘やかす」とは、満たされない愛欲による孤独についてであり、「夜道を弄れど虚しい」とは、幽霊が誰にも触れられない自分の身体を自身で虚しく慰めることが示唆されている。
「足の踏み場」と「小部屋」という表現の組み合わせはつい乱雑な部屋の室内をイメージさせるし、「夜道」と「蛍光燈」の組み合わせは自然と夜の情景をつなげてイメージさせる。
これらの表現は部分的に情景描写を織りなしているが、歌詞としては全体としての意味の誤読を引き起こすようにも仕組まれている。そしてその誤読によって、この曲が幽霊の曲であるということが非常にわかりづらくなっているのである。
4. 事故の描写
ここから曲はさらに盛り上がってくる。
無常とは、「諸行無常」という言葉にもみられるように、常に移り変わる世界を指す。すなわちそれは生者の世界である。それが「遠」いわけであるから、この歌詞の歌い手が今は死者の世界にいることがわかる。
生前の行いが良ければ良い香りを味わえる幽霊にとって、美味しくない「セヴンスターの香り」を味わうことは、過去の罪を実感する「罰」の瞬間でもあるといえる。
それを味わうのと同じように「貴方の影すら落とさない安蛍光燈」も「歪んだ無常の遠き日も」、(とある)季節を主人公に喚起させる。
それが次の描写へと繋がってくる。
静寂を破ってドイツ車とパトカーが走る。サイレンが鳴っている。爆音がなる。彼女は事故に遭ったのだろうと推測できる。
「現実界」とは、道ならぬ恋という夢から覚めたあとの世界のことを指している。
この表現は森鴎外の『即興詩人』や小栗風葉の『青春』といった文学作品の中で、恋や愛や酔いなどという「夢幻境」や「仮想界」から覚めた後の世界を指すものとして使われる。
椎名さんがそれらをどの程度リファレンスしたかはさておき、「現実界」という言葉が「道ならぬ恋という夢から覚めた世界」のことを指していることは間違いないだろう。彼女は事故に遭い、死ぬことによって、生の中にある夢の世界から現実界へと戻ってきた。
道ならぬ恋に溺れる罪の瞬間こそ夢の儚い時間であり、罰の時間こそ彼女にとって「現実界」なのである。
「或る浮遊」とは、おそらく事故にあって外に飛び出した身体と、浮遊し続ける幽霊になる瞬間が重ねられた描写であるだろう。椎名さんの歌と相まって、宙を舞う女性のあっけに取られた表情と身体が見えてくるかのようである。
ちなみに、この部分の描写には、かぎ括弧がついていない。つまりこれは生者としての罪というより幽霊としての彼女のうける罰であり、幽霊としての時間の初めの瞬間であると読み取ることができる。蛍光燈と過去の日の思い出=「罪」は、繰り返されるその季節を、彼女の中に呼び起こすのである。
5. 冒頭と最後の歌詞の繰り返しの意味
そして最後の盛り上がりが訪れる。後半の盛り上がりでは「罪」のリフレインが続く。
そして最後には、初めのAメロの歌詞が繰り返されている。
最後に最初と同じ歌詞に戻るということは、彼女の時間が「無常」ではないことを意味している。
つまり主人公は、常に物事が移り変わってゆく「無常」=生者の世界ではなく、常に同じことが繰り返され続ける死者の世界にいることが、この曲全体の構成として表現されているのである。
6. MVの生者と死者の表現
ところでこの曲のMVには、明らかな生者と幽霊の二人が登場する。
冒頭にはこのように、夜に車を運転する普通の椎名さん。
それと対比的に、この印象的な椎名さん。これがおそらく幽霊の状態である。
MVの中では、真っ二つに割られたベンツ=「ドイツ車」に乗って歌う幽霊版椎名さんが出てくる。事故を起こした後の車と幽霊としての存在が、そこに重ねられている。
おまけに手は出血している。
ちなみに、この曲には『椎名林檎と彼奴等がゆく 百鬼夜行2015』というライブツアーで披露されたバージョンがあって、その動画には歌詞がついているのだが、「今日も又足の踏場は無い」「小部屋が孤獨を甘やかす」「七ツ星の聲り」などライブの世界観に合わせて歌詞が変わっている。
しかしそこでもかぎ括弧だけは変わらずきちんとついているので、罪パートと罰パートの区分が重要なことはこうした表現からも読み取れるだろうと思う。
まとめ
このnoteでは、椎名林檎さんの「罪と罰」の歌詞を読み解いてきた。
ここまで読み解いてきたように、この曲は、罪パートと罰パートを繰り返しながら、死者が生前の罪について思い出しながら罰を受けて苦しみ続ける様子を歌った幽霊についての曲であった。そしてMVもそれと呼応するように作られていた。
この理解が一般的なものなのか僕もよく知らないのだが、まあおおよそズレていないのではないか、と思ったりしている。
この曲の歌詞を読み解いたから何か、ということは特に無いのだが、最近Adoさんが「罪と罰」をカバーしていて、その中に「林檎さんが歌う罪と罰は、甘ったるい香水の瓶をぶん投げて割るような狂気なんだけど、Adoさんが歌うと釘バットで襲い掛かってくるような狂気みを感じてすき」というコメントがあり、それが妙に記憶に残っていた。
このコメントは2人の歌い手の対比としても非常にわかりやすい感じがしたのだが、読むにつけ、椎名さんの退廃的な歌い方の意図が気になってきた。
椎名さんの歌い方も十分過ぎるくらいにパワフルだが、なぜ「釘バットで襲い掛かってくる」ようには歌わなかったのだろうか、と気になってきたのである。
それでまあ考えていたら、上のような考察に辿り着いた。
そういうことを含みつつ、動画を見返してみてもらって曲を聴いてみてもらえると、またこの曲を違った角度で楽しめるのではないかと思う。
考察は以上です。ありがとうございました。
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