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AR時代の広告論〜暖房からおしくら饅頭へ

スマートグラスの普及への期待も相まってか、最近AR広告に関する記事をよく見かけるようになった。退屈を覚えるものも多い。

なぜ退屈かというと、ARが普及した世界に対するイメージが、なんら意味的なイノベーションを孕んでいないからだ。ほとんどが近代の焼き直しをしているに過ぎない。

このnoteでは僕なりに、ARが普及した世界観を提示しつつ、次の世代の広告論に向けた基本的な補助線を整理してみる。ここでは、スマホによるARではなくスマートグラスARが普及した社会を想定している。

前提:誰もが違う世界をみている

ちょっとした前提の共有からはじめよう。

最近イヤフォンをつけたまま通話する人によく出会う。熱心な独り言のようで、たいてい通話している。十年前なら不審者だが、僕らはすでにそれに慣れてしまった。もはや日常である。

イヤフォンを用いた通話は聴覚的なARのひとつだ。スマートグラスは視覚的なARなので、イヤフォンと似た現象が視覚的に発生すると考えれば良い。

つまり誰もが違う世界をみているのである。

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ある人には世界がモノクロに見えている。ある人にはメルヘンの国にいるかのようにすべてのビルがデジタルにデコレーションされている。ある人には自分だけの壁がみえていて閉じこもっている。ある人には鳥の大群が飛んでくるし、ある人は幽霊とダンスしている。

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各々が世界を自由に改変し、自分の好きな世界の中で暮らしている。

見たくないものは見ず、見たいものは追加する。見たいように世界を見る。こうした世界観を僕はバーチャルリノベーションとよんでいる。

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バーチャルリノベーションが普及した世界では、オープンな空間の中に居るのに本人は壁に囲まれたつもりでいたり、狭い空間なのにダンスフロアにいるつもりでいたりする人々が共存することになる。これまでのビルディングタイプの概念は間違いなく崩壊するのだろう。

誰もが幻覚をみているかのような世界観。新宿の酔っ払いが突然喚いたり踊ったりしておののくことがあるがそれに近い。人は突然踊りだしたり突然身体を小さくして独り言を言い始めたりする。それに僕たちは慣れてしまう。

バーチャルリノベーションの世界観で注目すべき点

こうした世界観の中で特に面白いのは、

それぞれの人間が同じ物理空間にいることによって、否応なしに(振動や熱伝搬を通して)作用しあい、奇妙な反応系が生まれてしまうことである。

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例えばバーチャルに出現させた視覚的な閉じこもった壁に囲まれていても、隣の人が踊り始めれば振動は伝わる。そうすると静かになりたい人は離れていくだろう。自然と空間の位置関係が生まれてくる。

バーチャルにパーソナライズされた世界は、直接的に他人に知覚されることはないが、その世界によって変化したユーザーのふるまいを通して、間接的に他者に影響する。

原理1:自然発生的におしくら饅頭を作ればいい

こうした奇妙な特性は、どんなデザイン原理につながるだろうか。

寒い冬に暖房をガンガン炊いて人を温めるのがこれまでの価値観としたら、AR時代の価値観は、人をある場所へ誘導し密集させてしまうことで暖かくすればいい、というものと思う。

具体的に示そう。

ケーススタディ:清涼飲料水の広告でのARストリートサッカー

清涼飲料水の広告を考えたい。

ARストリートサッカーというアイディアをもとに考えてみる。

もしも現実でそうしたイベントを行う場合、人々にイベントを周知し、仲間を集めさせ、服や道具の準備をさせ、スポーツイベントに来てもらうのは大変だ。

しかしARによって日常的な空間は突然スタジアムにかわる。そこには蹴ることのできるバーチャルなサッカーボールがあり、自分はユニフォームを来ていて、同じようにサッカーユニフォームを着させられた人が周りにいるならばすぐにサッカーを始められる。

なんとなくボールを蹴ると周囲が反応するという現象は、なんだか不思議な気がする。

もし清涼飲料水を売りたいなら、人の見ている世界観を変えてしまって、皆を集め、スタジアムまでの道筋とスタジアムそのものをみせ、運動をはじめるように誘導してしまえばいい。

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自然とバーチャルにサッカーをしてしまう。汗をかく、仲良くなる、ドリンクが欲しくなる。それが、日常的な都市体験のなかで与えられる。

従来では視覚情報から欲望を喚起していたのに対し、AR時代ではより身体的に欲望を喚起できる

原理2:ARとコミュニティ

上記のケーススタディは、コミュニティを一時的に形成する試みでもある。

どういうことか。

おしくら饅頭とは、熱を与えるという機能以上に、コミュニティを形成し、「寒い」という状態でさえ皆で共有することで価値に転換するための儀式である。

ドリンクを販売するだけでなく、サッカーをともにプレイするというコミュニティへの参加も同時に与えることで、よりシックにリーチする広告としての価値がある。

ARでは、空間という場を与えることを通して、人々に特別なつながり感を与えることが重要になると思う。なぜならば、コミュニティへの展開が広告として重大な価値があるのは、人のつながりへの欲望は、行為とリンクすると思うからである。

人にはつながりたいという欲望がある。そのために何をすればいいか考える。

女子がおしゃれなシャンパンを好きだとしたら、そのラベルと味が好きなのではなく、シャンパンが飲まれる場所にあるつながりが好きなのである。

「シャンパンが好き」といえばそういったものを好きな人たちが集まってきてパーティーできると知っているから好きなのである。ただシャンパンが飲みたいのではない。

このように、人々の欲望を眺めていると、「何々が食べたい」「何々がしたい」という物質的な欲望の裏には、常にむしろ社会的な欲望が横たわっている。

逆にいえば、身体的な欲望へ介入することによって、物質的な欲望と社会的な欲望をスムーズに繋げていけるのがAR広告の価値でもある。

ここでの重要な点は、「誰もが全く違う世界に生きている」という前提である。誰もが違う世界に生きているからこそ共有された世界が特別化する。

AR時代の広告とは、こうした考え方であると思う。

まとめ

このnoteでは網羅的というよりはむしろ発見的に、AR時代の広告原理について考えた。

重要な点は3つ、と思う。

一つめは身体的に欲望を喚起すること。一つの欲望だけでなく、様々なストーリーと結びつけることで走るとアクエリアス(あるいはポカリ)、盛り上がるときにはアクエリアス(あるいはポカリ)、という風に多面的に欲望の喚起リンクを作る必要がある。2つめは、それに伴って世界の特別感を演出すること。3つ目は社会的な欲望をうまく刺激すること。

当たり前に誰にでも与えられるものでは人はそこに固執できない。限定であり特別であるとおもうからこそ欲しくなるのである。

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