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手段としての文章と信頼〜ChatGPTと記者会見での経験

対話のない文章のこと

とあるレクチャーで、終了後の参加者のレポートをいくつか読ませてもらった。複数読んでいて、変な話だがChatGPTを使って書いているのだろうな、というものは一目見ればよくわかる。びっくりするくらいに明らかで、かなり驚いた。

文章を膨大に読んでいると、そこに逡巡や悩みのようなものが透けてみえるようになる。とりあえず「えいや」とまとめている部分や、ネットから借りた人の言葉で書いている部分や、気持ちよくなって書いてしまっているところ、考えないで書いている部分など、そういう文章の裏にある書き手の盛り上がりや逡巡のようなものが、かなり鮮明に読み取れるようになってくるのである。

しかしChatGPTを使って書かれたレポートには、文章を書く上での感情の起伏のようなものが、みえない。そのことが文章を退屈にする。もちろん専門的な内容のまとめかたがテンプレート的すぎるとか文章の端端から明らかな理解の不足が見えてうんざりするという胡散臭さもあるのだが、それ以上に文章がつまらないのである。それは思考としての興味深さとか以前に、対話の欠落である、といってもいい。

つまるところ、文章は手段にすぎない。絵も詩も結局は手段にすぎない。想いを伝えあったり、言葉にならない思考や感情をやり取りしあうために人は言葉を使うのである。そもそもの中身のない器としての言葉はどこまでも空疎でしかない。その意味において、ChatGPTを使って書かれたように見えるレポートは、読む気も失せるほど退屈だった。

記者会見での迫力ある演説のこと

少し前に、FC今治高校の記者会見のお手伝いをした。FC今治高校は、FC今治という元日本代表監督の岡田武史さんがオーナーを務めるチームが、新設したスタジアム内に実地教育を中心とする身体知を重視する新しい高校を設立するというもので、素晴らしいことだと思っていた。社長の矢野さんからお声がけいただいたので、記者会見のお手伝いをしてきた。

演説する岡田さん。

そのときに岡田さんの演説を初めて聞いた。岡田さんとはそれまでも一緒にお酒を飲ませてもらったり看板の張り出しを一緒にやったり、何度かお会いしていたのだが、生で集団に向けて自分の想いを伝えている岡田さんを初めて目の当たりにした。

別に言葉の論理が繋がっているわけではないし、周到に準備されたプレゼンというわけでもないのだが、言葉から言葉へのつながりの中で、岡田さんの想いが巨大な塊のように自分の中に入ってくるように感じられるのである。日本代表の監督はこういうものなのか、とその凄さに驚いた。もしもこれがサッカーの試合前だったら、ものすごいモチベーションでピッチに出られるのだろうな、と想像した。そこに日本代表監督としての迫力を感じたのである。

その記者会見の後半で、高校設立に関わったとある大学教授がカタカタと記事を書く記者たちを指して「これからは記事もChatGPTが書いてくれるので、皆さんの仕事もなくなります」というような意図のことを言っていた。僕はそれに、どうにも違和感を覚えた。

あの岡田さんの演説の後の高揚の中で書いている文字は、ただの要約とは違う気もしたからである。記者さんたちは機械的に内容を要約していたわけではなく、身体的な盛り上がりや高揚を言葉に乗せていたのではないか、と思う。それが人の心に伝わる言葉になる。

文章執筆のコストが下がると結局は本物の価値が高まる(はず)

LLMをはじめとする生成AIを見ながら「まあこれは広がっていくのだろうな」とはすごく思う。チャットボットやゲームのキャラクターでの活用、カスタマーサービスでの活用などはすごく広がるだろう。

とはいえ、巷で言われるような論文や研究計画書や授業レポートでの生成AIの利用は、はっきり言って毒饅頭になるだろうとは思う。

レポートに関していえば、結局のところ対話なしのレポートなんて教員のためのものというよりは学生のためのもので、「あなたの思考が深まったか?」が基本なので、形式的に書かれるレポートなどただのお互いの時間の無駄なので必要ない。

ただの報告書としての論文であれば、ChatGPTはまあ使えるだろうけれど、人に読んでもらえるようなものにはならない気がする。偶発的にすごく読まれるChatGPTによる文章は出てくるだろうし、すごく読まれる現象が起こらないとは言わないが、なんというか、その活用は負け筋だとは思う。

結果として、短期的にはうまくいくかもしれない。しかしChatGPT的な文章が氾濫すると、結局はChatGPTでそれなりに書かれた文章は埋もれるに決まっている。ChatGPTの活用が増えて、文章執筆のコストが暴落するほどに、本物の文章がかければ差別化も容易になる。技術の安易な使いこなしにコストをかけるよりも、人の心に届く文章の修練にコストをかけたほうが何倍もいいのではないか、と思う。

以前は「Googleで何でも調べられる世の中になる」とよく言われたけれど、結局はすぐにGoogleで調べられる範囲の情報なんてほとんど価値を持ってくれないように、文章を書ける能力のようなものは自身の経験と迷いと修練の中でしか育っていかないから、それなりの文章を書けるだけの能力の価値は埋もれて暴落するのだろうと思う。

それなりの文章を書くことによる信頼の低下

はじめに、感情の起伏が見えず個性の乗らない文章が退屈だったと書いた。そしてそれは対話の欠落としてあらわれる、とも書いた。その上でFC今治高校の記者会見での岡田さんの演説に触れ、身体的な興奮や感動を文章に載せることによる、書き手と読み手の対話の重要性について書いた。

誰かに読んでもらう文章を書くことは、それが論文であれ科研費の申請書であれただのレポートであれ、手紙のように、敬意を示すことを伴う行為でもあると思う。

ネットですぐに調べられる内容のレポートを出されるとその人間に対する信頼度も下がるように、薄い文章を書くことによる信頼の低下は今まで以上に著しいものになるのではないか。その意味でも、毒饅頭を無闇に食べることがいいこととは思えない。

人間は苦労と失敗と逡巡の中で学ぶものだし、偶然に手に入れた成功には再現性がないのではないか、という気がする。

(完)

このnoteに関連する議論は、Podcast「だれかとどこか」より。


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