続・伊藤詩織さんの事件で語られずに残ったこと

 今回は、前回のnote記事では書ききれなかった更に細かい点について考察していこうと思います。それはおもに「夜職」と呼ばれるジャンルのコミュニケーションと、それがもたらす認識のズレについてで、伊藤さんと山口氏が最初に出会った場所が「ピアノバー」であったことを踏まえると、触れないわけにいかないからです。

「ピアノバーでの出会い」に対する過大視と過少視

 伊藤さんがバイトしていたニューヨークのピアノバーが、実質的には現地の日本人向けキャバクラであったことはすでに指摘されています。それを根拠に、キャバ嬢の枕営業だったという中傷が発生したわけですが、さすがに論理の飛躍があります。伊藤さんがピアノバーで築いたコネで職を得ようとしたことと、性行為に同意することとは全くイコールではなく、少なくともシラフの状態で同意を示した事実はないため、枕営業の意思がなかったのは明らかだからです。

 Twitterなどの短文では、ほんらいイコールで結べないことを強引に結びつける単純化が横行していますが、この事件に対し「枕営業」という言葉をあてるのは悪質でしょう。

 一方で、ピアノバーで知り合ったという前提を不自然なほど過少視する声もあり、かえってその非日常性を認めてしまっているような態度にも感じられます。水商売をめぐって、このように意見が分かれることから考えても、今回の事件を語るうえで「ピアノバーでの出会い」は避けて通れないものだといえるでしょう。

主観のズレを発生させる水商売の現場

 二人の出会いをおさらいします。伊藤さんが働くニューヨークのピアノバーに当時TBSワシントン支局長だった山口氏が訪れ、伊藤さんはジャーナリスト志望であることを伝えます。山口氏は「君のような夢を持った人がいるのはうれしい」と評価し、ニューヨーク支局ならいつでも案内するよ、と名刺を渡します。その日の会話が盛り上がったことも『Black Box』には書いてあります。

 いうまでもなくこの本は伊藤さん側の主観の産物で、その場面において山口氏がどう感じたかは書いてありません。著書に「盛り上がった」と書かれていたとしても、その「盛り上がり」の根拠は伊藤さんと山口氏では当然違うわけで、被害者である伊藤さんに感情移入しすぎると、そうした基本的なことを忘れてしまいかねないんですね。登場人物が二人いるとき、主観も二つあることを常に意識しなければなりません。

 伊藤さんは、著名なジャーナリストとのコネが築けたという実益を含め、専門分野についての会話を楽しんだのでしょうし、自分の熱意を評価してもらったと感じたことでしょう。一方の山口氏は、自分の権威が通じる若いキレイな女性との会話を楽しんだ、というズレがあったのではないかと想像します。

 キャバクラ的な店というのは、ほんらい何の共通点もない男女が、金を介して形式的な会話を成立させる場所なわけで、ピンポイントで共通点が見つかれば当然盛り上がります。自分の専門分野についての話を本気で聞いてくれるキャバ嬢がいたら、多くの男性は有頂天になってしまうでしょうし、うまくいけば落とせるかもと考え、名刺を渡すなどタネを仕込むでしょう。妻帯者で年齢もかなり上の山口氏がそれをすることには議論もあるでしょうが。

 「盛り上がった」という記述から私が想像したのは、そうした両者の主観のズレです。伊藤さんは山口氏と会話しているとき、ピアノバーのキャバ嬢ではなく「ジャーナリストの卵」という意識だったのかもしれませんが、山口氏の目に映る伊藤さんは、おそらくそれとは重ならないでしょう。せいぜい自分を尊敬してくれる若くキレイなジャーナリスト志望のキャバ嬢くらいではないでしょうか。残念ながらそれは仕方のないことで、接客についた女性を「キャバ嬢」ではなく「ジャーナリストの卵」だと見なすことの方がむしろ不自然です。伊藤さんの自任がどうあろうと、他人の主観は浸食できないんですね。

 そうした山口氏の主観と、伊藤さんの自任のズレは続いたまま、前回の記事で書いたように「『美人』を利用する『女』」であるというメッセージを送ってしまい、被害に遭ったのだと思います。もちろん、ピアノバーで働いていたこと自体が、そうしたメッセージの下地になっていたことは言うまでもありません。

 ピアノバー(キャバクラ)に踏み込んで言及すると、すぐに「水商売の女性ならレイプしてもいいって言うのか!」という反応が飛んでくるため触れにくくなっていますが、それについてはきちんと否定しつつ、水商売の現場がもたらす主観のズレと、その危険性については指摘していく必要があると思っています。

バイアスのかかった人間関係を構築し直すことの困難さ

 キャバクラ的な店で働く女性が、店に来た男性と仕事につながるような信頼関係を築けないわけでは決してありません。起業の出資を受けた人なども知っています。しかし、この事件における二人の関係がそれに該当するものだったかは疑問があり、前回の記事の有料部分でも触れましたが、伊藤さんと山口氏が会ったのは二回です。一回目は、上に書いたピアノバーでの出会い。二回目はTBSニューヨーク支局長を交えた会食に呼ばれて。それが信頼を築くに十分であったかどうかは皆さんの判断に任せます。そして、重要なことなので再掲しますが、伊藤さんにとっての山口氏は前回引用したとおり、

“多くの知り合いの一人で、気さくに人を紹介してくれる成功したジャーナリストであり、それ以上でも以下でもなかった”

 これなんですね。「元・キャバ嬢と客」の関係を更新するような信頼関係を築けたとはあまり思えないのです。むしろ、自分にとっての利益だけを吸い上げようという意識すら透けて見えてしまう。それはまさにキャバクラ的です。

 下心と利益供与が絡む水商売の現場で知り合った男女関係を、一般社会の関係に構築し直すのはそう簡単ではないと思っています。初対面の印象はどうしても強く、キャバクラで知り合った子が辞めた後も、元・キャバ嬢の○○ちゃんという認識はしばらく残ります。女性にとっても、元・ホストの○○くんという印象はすぐには消えないものでしょう。

 今回の事件では、伊藤さん側は早い段階からピアノバーの客と嬢ではなく、「ジャーナリズムを志す先輩・後輩」のつもりだったのだと思います。しかし山口氏の側には「元・キャバ嬢の詩織ちゃん」のイメージが残っていた。それは、就職相談のメールでも「詩織ちゃん」と呼んでいることからも窺えます。

ギブ&テイクが成立しない取引

 就職の便宜をはかってもらうような大きな頼みごとをするときに、自分が相手にどう見られているか点検してみるのは大事だと思います。

 報道機関に属さないジャーナリストがアメリカで就労ビザを取るのは困難で、お金もかかります。それを山口氏にクリアしてもらうとなると、巨大な借りが生じてしまうわけです。そうした前提のもとで「ビザの相談のために会おう」と言われ、伊藤さんがどう思ったのかが気になります。

 客観的に見て、とくべつ強固な信頼で結ばれているとは思えない二人の関係性と、それに見合わない破格の申し出。まさかレイプされるとは想像しないでしょうが、ギブ&テイクがまるで成立しない取引に違和感を覚えなかったのか、気になるところです。おそらくインターン経験しかない伊藤さんに対して、山口氏の申し出はかなりの特別待遇といえます。好意に近いものをうっすら認識していなかったのか、それとも、それすら利用して利益だけ受け取る決断をしたのか。

 山口氏の提案は、あまりに「渡りに船」すぎるんですね。そのとき伊藤さんが一番欲しがっていたものをよくわかったうえで、「与えてあげよう」と申し出ている。これも今だから言えることですが、個人的な感覚を述べるなら、非常に危険な提案に思えてしまいます。

 もしシンプルに「恩は仕事で返せる」と考えていたのなら、うらやましいほど健全で、自己肯定感の高い人だと思います。中傷をともなう長い闘いのなかで折れずに信念を通した伊藤さんを思えば、その可能性が高いでしょう。しかしその健全さが、場合によって危険なズレをもたらしてしまう。今回の事件のように。相手にどう見られているかの点検と、相手と自分の主観のズレを想像することの大切さ、他人が自分と同等の倫理観では行動していないという前提は常に持ち続けたいものです。

男性側の猛省は大前提

 こういうことを言うと、「山口氏がおかしいだけだろ!」「なんで女性が気をつけなきゃならないんだ!」「伊藤さんは間違ってない!」と怒る方がいると思いますが、山口氏が間違っていることなど大前提です。しかし、それはあちこちで「語られていること」で、前記事及び本稿は「語られずに残ったこと」について考察しています。

 さらに言うなら、「あなたは間違ってない」といくら言ってもらったところで、起こってしまった被害は消せないのです。こうした事件を無くしていくには、男性側に猛省を求めるとともに、女性側が自分の主観を絶対視しないこと、ギブ&テイクの成立しない取引には乗らないことが重要になってくるのです。そうしたことの積み重ねで、少しずつ「間違った男性」を退場させていくことができるのだと思います。

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Twitterの琥珀色は引退しました

コメント1件

私も被害を否定しませんが、この件に関してずっとモヤモヤとしていたことを非常に明快に解説してもらったような気持ちです。やはり、ピアノバーに勤めた人としては、「健全すぎて、」「自己肯定感が高すぎる」ということが感じていた私の感じていた違和感だとわかりました。
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