人生の指針
若い時はGIDが霞む程の人格者になりたいと思った。その為にもこうなりたい、これがしたいと様々な目標を掲げてきた。だが他人には僕が成したことの過程にある葛藤は見えない。
また、他人は新しい目標にむかっている僕を知らない。コツコツとその時のために積み上げている事も、その心のうちにどのような葛藤があるかなんてのも感じる事はできない。
そんな僕の中身を知らない他人につまらない言葉を言われようと気にしてはいられない。何気ない言葉で気に病み頓挫したとしても、あたりまえに誰も僕の人生に責任を取ってくれる人はいない。
何かに躓いた時は、SNSに広がる顔も知らない人の言葉や隣の芝生さえも青く見える。根拠なく人を羨ましがる事があろうとも本当に羨ましいのかしっかり考えていかなければと、僕にはそれが必要ですか?と。ブレーキかけて問うていかないと何に向かって行ってるのか見失う。
そういった事から言えば、人生は車の運転に似ていると思ってきた。目的地を設定してその方向へ進んでいく。目移りすればハンドルは自然とその方向へ向かっていく。思考は現実化するなど言葉があるが、目標に向かっていれば自然と行動が伴う。
だが、まっすぐそこだけを目指す人生なんて面白くない。時には寄り道もしたい。気分次第でスピードあげたってスローでもいいのだ。また年齢と共に視点が変わり価値観も変わる。きっかけから年月を経て、僕は目的地だったと思っていた事は過程に過ぎなかったと知った。
人生なんて矛盾があって当たり前なのだ。
そして、僕の目的地は他人にとっては何の価値もない。自己満足で自分が感じた理想的なその時を迎える為に毎日積み重ねている。
いつ、その時が来たとしても心からありがとうと言える人生にしたい。そう思わせた祖母の死への迎え方。僕にとって人生の指針である。
本日10月10日は、祖父の誕生日。そして、祖父と祖母の命日。