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可否爺さん 四

 此の様な徒口を呟き青年は歩いて居た。勿論彼は学問と成功が交わる事のない平行線である事を未だ知らぬ若いロマン主義者で有る。然し尠くとも彼の理想は欺瞞でなく純粋な情念から口に出る言葉で有った。彼はどこか僥倖な期待を胸の片隅に膨らませ青年期特有の夢想的な日々を過ごして居た。彼は店の扉を開けて驚いた。大きな音を立てて焙煎機が稼働して居たので有る。鉄の前蓋が開けられ大量の豆が流れ落ち煙が立ってばちばち爆ぜた。入り口で立ち止まり芳香を躰に吸い込むとアクチヴな空気が皮膚に侵入した。

 「おや、いらっしゃい」
 「こんにちは」
 「慌ただしくてごめん。もうワンバッチ焙煎して良いかな?」
 「勿論です。見物して良いですか?」
 「どうぞどうぞ」

 可否爺さんは麻袋を開け豆を計量し上部ホッパアに入れ操作盤を操作しポッパアを開け豆を煎り始めた。生豆の青臭い臭いがした。がしゃがしゃ廻って煎られる豆の臭いは時経と共に変化した。爺さんは覗き窓から中の様子を確認した。数分すると臭いは新緑から紅茶の甘い香りに変化しスプンを取り出し色香りを確かめると紅茶からダークチョコになり珈琲本来の香ばしさとなった。機械の奥から豆の爆ぜる音が聞こえて来くると爺さんは慌ただしそうに横のバルブを調整し温度計を確認しスプンで香りを嗅ぎ操作盤を操作し窓から覗いて其処此処鋭敏に動いた。焦げたキャラメルの様な強い香りになると数秒毎にスプンで色香りを確かめある瞬間迷いなく開閉ハンドルを開けると豆が落ち煙が渦巻いた。箱の下から凄まじいモウタア音が鳴り羽根で攪拌し冷却を終えると爺さんは煎った豆をバケツに取り出した。十分程度のプロセスで有ったが時間の感覚を忘れ釘付けになって居た。

 「焙煎完了。お待たせしてしまって」
 「いえ、まじまじと見つめてしまいました」
 「大した事でもないが、味というのは刹那に消ては現わるもので、それを直感的に捕まえる事が難しくて」
 「芸術みたいですね」
 「如何だろう? 若い人にとっては科学なのかも知れない。でもわたし等古い人間だから、何方かと云うと芸術なのかな」
 「一杯頂けますか」
 「もちろん、さあどうぞどうぞ」

 カウンタアで女性が一人手元の本に目を落として居る。少し冷えるのか菊柄の黒縮緬を羽織った沙織さんだ。あっ。あらいらっしゃい。どうもこんにちは。お久しぶりね。

 今日はドリップにしてみようか、と爺さんは珈琲を淹れ始めた。此処にはサイフォンとドリップの器具が有るが爺さん曰く何かを「漉す」と云う方法は日本古来の民族風土から発生した伝統で有ると云う。そう云われると出汁や酒造お茶など日本人は何でも「漉す」工程を大切にして居る。

 「海外では、漉したりしないのですか?」
 「今では漉しているね。アメリカではハンドドリップが流行なのだそう。でも外国人がネルドリップを見ると、日本人は靴下で珈琲を淹れるのかと驚くらしいよ」
 「へえ面白いですね。じゃあ昔は漉したりしなかったのですか?」
 「うん、それを話し出すと長くなりそうで…」
 「可否爺さんの珈琲談話がはじまるわ」
 「ぜひ聞かせてください」
 「うん、あの、概念―それはお茶でも紅茶でも何でも良いのだけど―概念は歴史の中で生成し、現在に現象化して居る。つまり珈琲を語るには、先ず珈琲の歴史を語らなければならない」
 「概念の生成ですか。じつは今大学で法を学んで居るのですが、まさに法も歴史の中で生成され今が有るのだなと実感します」
 「それは面白い。じつは法と珈琲の歴史には深い関係性が有るのだよ。ちょっと話してみようか?」
 「お願いします」

 其れから話し始めた爺さんの口述を筆記すると大体以下の様な事となる。『珈琲』が商業生産物として扱われる以前エチオピアの人々は森に生育して居た野生の木から赤い実を摘みとり儀式に使用した。彼らはコカの様に葉を噛んで茶を作り其れを見たシバ王国の商人達は珈琲の種をエチオピアのカファ地方からアラビア半島に持ち帰った。飲料としての始まりに関しては様々な伝説が有るが十世紀のイスラム世界でコウランを読み解き神との一体を求め宗教儀式の間覚醒を保つ為にスウフィの神秘主義者達が珈琲を呑んでいたと云う。彼らは他国の文化を吸収しギリシャやインドから学者を招いて『知恵の館』と云う巨大な図書館を建設し科学や医学や天文学を体系化していった。アルコオルを含まず精神を刺激する珈琲はアラビア文化に上手く馴染んだのではないだろうか? 彼らは珈琲を呑みながら抽象的な思考を深め現代数学の基礎を作った。歴史の偶然とは面白いもので有り中世キリスト教は支配の為にギリシャ・ローマの文献を焼き払ったが『知恵の館』でアラビア語からラテン語に翻訳されて居た古代の文献を偶然手にした西洋人は其れを逆輸入する形で読み千年に渡るカトリック支配から脱する為ルネッサンス運動を起こした。此のルネッサンスという人間中心主義はその後宗教戦争に拡大しウエストファリアを経てハムレットを産み人類は近代への一歩を踏み出す事と成った。中世の終わりと共に珈琲は世界中に広がった。一四世紀にはイエメンで栽培されアラビアに広まり一六世紀にはイスタンブウルに到着した。一七世紀になるとベネチア商人はトルコ人貿易商から珈琲豆を購入し船積みされた珈琲が初めて西ヨーロッパに到着した。此の魅力的な飲み物は忽ち貴族階級へ広がり後にブルジョワ階級に熱烈に取り上げられイギリスで『コーヒー・ハウス』を誕生させた。屋外での肉体労働の多い中世から近代へ移行しデスクワアクや知的労働に従事する一七世紀のブルジョワにとって珈琲は集中力を高める助けとなったのではないか? ブルジョワは『コーヒー・ハウス』に集まって意見を交わし科学や政治やジャーナリズムを発展させ、ニュートン、ユウティリタリアニズム、スペクテイタァを生み、保険会社と証券取引所を誕生させ小さな商業団体の融合はやがて巨大なシティを形成した。ジョン・ロックは何杯のコーヒーを飲み『統治二論』を書いたのか? 仮に此の本を書く燃料が珈琲で有ったのなら眞に珈琲こそ革命を推し進める燃料で有り歴史に珈琲という偶然が無ければアメリカの独立戦争もフランスの革命も日本の維新も起こらず資本主義や民主主義も今の様な形で発達し得なかったかも知れない。イギリスで『コーヒー・ハウス』が発展する一方フランスでは『カフェ』文化が発達した。『鹿の園』で有名なポンパドール夫人はルイ一五世の公妾となって湯水のように金を使う一方サロンを開きディドロやタランベール等のパトロンになって『百貨全書』の出版を保護した。サロンという舞台で花開いた一八世紀の啓蒙思想家達も又珈琲を呑む事で霊感を蒙って居たのではないだろうか? ヴォルテェルは『カフェ・プロコップ』で一日五〇杯の珈琲を呑んだと云う。ベンジャミン・フランクリンとトマス・ジェファソンは警察の目を逃れてチョコレイト入りの甘い珈琲を呑みながらフランス社会を観察しアメリカ政治を議論した。サロンの片隅で虎視眈々と『第三身分とは何か』を執筆するシェイエスの姿『フランス人権宣言』に着手するラファイエットの姿が目に浮かぶ様で有る。ある日パリ・ロワイヤルのカフェ・テラスで珈琲を呑んで居たカミーユ・デムーランは立ち上がって空に向かい一発の銃弾を発射した。「武器を取れ!」忽ち巨大な生物へ成長した群衆はバスティーユに向けて行進を始める。「パリ全市が一軒の巨大なカフェになりぬ」とはフランス革命を研究する歴史家ミシュレの言葉だが一七二一年にパリで三百軒程で有ったカフェはナポレオン第一帝政時には四千軒に増えて居たと云う。もはや珈琲と革命に必然的諸関係が有る事は自明であろう。ヨーロッパ中に広がった珈琲はその後ヨーロッパから持ち出される事になった。需要の高まりと上昇する価格を背景にヨーロッパ人たちは熱帯地方の探索を始める。オランダ人に拠りインドネシアに持ち出された珈琲の木は繁殖に成功し『コーヒーの帝国主義』という方法は西インド諸島に広がった。イギリスはジャマイカで栽培を始めフランス領ギアナを訪れたブラジル士官は母国に苗木を持ち帰った。スペインの宣教師がキュウバに持ち込んだ珈琲は中南米諸国へ広がり商業生産物として発展した珈琲の国際取引を東インド会社の様な貿易企業は独占した。ラテン語の「coffea」という学名は珈琲の木が加わる植物全体の属性に有る様だが眞に近代になり珈琲は世界を圧政した。一九世紀になると貿易独占解体に拠り珈琲市場に競争がもたらされ産業革命時の労働者や中産階級の主要品となって消費は上昇し価格が下落した。新たな需要を満たす為覇権国は植民地で盛んに生産を拡大した。珈琲は世界を駆け廻る。世界中の需要が高まるに連れ投資家たちは新しい生産地を開発し新しい消費地を開発した。革命後の近代社会に現れたのは「競争」という原理原則に拠り運動を行う資本主義の庭で有る。人類の闘争形態はブルジョワ階級とプロレタリア階級と云う拠りシンプルな二つの階級に置き換えられた。貿易に総じて増大する市場はブルジョワに新しい闘争領域を作り出し市民革命と産業革命を経て政治的支配権を勝ち取ったブルジョワは国家権力に入り込み国民議会を形式を用いて支配する為のオフィスに変えた。政治権力と結び着いて百万長者となった近代ブルジョワは中世から受け継ぐ階級を背後に押し退け資本の自己増殖の手段となったプロレタリアは労働が資本を増殖する間にだけ呼吸する事を許された。農民、商人、小工業者、手工業社、中産階級は全て他の売りものと同じく一つの商品と成り彼らの熟練技術は新しい生産様式に拠り価値を奪われた。マルクスが言い現すように「人間の値打ち」を「交換価値」に変えたブルジョワは宗教的搾取から人類が始めて手にした自由を現金勘定で資本の直接的搾取の形に変え僧侶も詩人も法律家も医者も全て「賃労働者」に変えた。生産物の販路拡大と云う欲望に掻き立てられたブルジョワは地球上を駆け巡る。彼らはどんな所でも開拓しどんな所にでも巣を作り人類の欲望を掻き立てて創造した欲望を満たす為地球の裏から出る原料を加工し製品化しあらゆる大陸で消費し「搾取・生産・消費」という三つの数式で運動した。二〇世紀になると地球を駆け巡る資本に拠り多民俗の文学は一つの世界文学へ言語化された。一つ国民、一つの政府、一つの法律、一つの利益、一つの税線を持つグロウバルという生活体は都市に人口を集中させ生産手段を集中させ財産を少数者の手に集中させた。いま「金融」という好餌を手にした者に働く原理は「働くものは儲けず、儲けるものは働かず」と云う事だ。人類は貨幣をも賃労働者へ仕立て上げる様になった。冷戦体制の崩壊に拠り『新自由主義』と云う旗幟の下で自由競争に適当する社会制度と政治制度も決定的なものになった。現在の法律、道徳、宗教は全てブルジョワ的偏見で有り背後に隠れるものはブルジョワ的利益なので有る。

 「然しドナルド・トランプ現象は、世界国民的なるものの終わりの始まりなのかも知れんね」と可否爺さんはコップの水を呑み干し一息ついて又話し始めた。

 所で日本人と珈琲の接触はペリー来航以来長崎や横浜等の貿易港に開店した西洋料理店のメニュウ一部で提供されて居たものに有る様で福沢諭吉は一八七五年に『文明論之概略』を書いたが明治の文明開化を見ても其処に未だ珈琲店の存在は無い。日本初の珈琲店は一八八八年に開店した『可否茶館』とされており此の頃から喫茶店なるものがぽつぽつ出来始めた。一九一一年銀座に開店した日本最古のカフェ『カフェープランタン』は常連客から会費を募り運営資金にする日本初の「会員制カフェ」で有り会員名簿には森鴎外、永井荷風、政宗白鳥、谷崎潤一郎、黒田清輝等の文化人の名が有り何方かと云うとフランスのサロンに近い様だが同じ年銀座に出来たもう一軒のカフェ『カフェーパウリスタ』はブラジル移民送出しの功績によりブラジル政府から珈琲豆を無償提供され大隈重信の支援を受け開業した「輸入販売業者」で有る。銀ブラという言葉は銀座をブラブラするという意味が有る様だが実はもう一つ『カフェーパウリスタ』でブラジルコーヒーを呑むという説も有る様で『カフェーパウリスタ』の考えた「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱き」という謳い文句はタレイランの「よいコーヒーとは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い」に呼吸して居る様で有る。フランス革命時に僧侶服を脱ぎナポレオンが現れると軍服を着て没落と同時に又脱いでウィン会議に乗り込み直ちに平和条約を整えたこの男は「会議は踊る、されど進まず」で有名な人物だが美食家のタレイランは用意したフランス料理で会議を惑わせたのではないだろうか? 勿論食後の珈琲もお忘れなく。さて此処から時代は戦争へ突入して行く。太平洋戦争中は珈琲が禁輸され苦悶した日本人も多かった。其の反動から戦後珈琲嗜好は盛んに成り特にインスタント・コーヒーが出現してからは一般家庭の消費が急速に伸びた。インスタント・コーヒーは一八九九年にアメリカに在住して居た日本人科学者カトウ・サトリ博士に拠り発明されネスカフェは戦時中の米軍兵士が戦場で呑む事に歓迎され戦後進駐軍が持ち込んだことを切欠にインスタント・デモクラシイ共々日本に持ち込まれた。戦後の珈琲の在り方には主に三つ流れが有り第一の形態は一九六〇年代に輸入が再開された事に拠り店主の趣味や主義が反映される個人店が世の中に現れた事で有る。当時レコオドやテレビを所有する家庭は未だ少なくジャズ喫茶や名曲喫茶等のコンセプトを打ち出す店が現れ更に生豆輸入の自由化に伴い豆を仕入れて自分で煎る自家焙煎店が現れサイフォンやネルドリップ等の器具が発展しブルウマウンテンやキリマンジェロ等のブランドも現れた。珈琲のブランドとは如何なる物かと云うと例えばブルウマウンテンは植民地ジャマイカで収穫されていた珈琲をイギリス王室が呑んで居たと云う物語を作ってブランド化し販売する手法で有り変わり種にはジャコウネコの糞から獲れる珈琲は希少な為に高級で有るという物迄有り即ちこの時代の珈琲は未だ「味」で評価せれる訳でなくマアケティングの手法に拠り「美味しい珈琲」の概念が作られて居た訳で有る。一九八〇年代に入ると冷戦体制崩壊に拠る政治転換で日本人の生活様式も慌ただしいものと成り喫茶店で音楽を聴き珈琲を呑む様な時間は失われた。失われた三十年に日本人が失ったものとは何か? 喫茶店の在り方はビジネスマンが隙間時間を使い一息つく為のセルフ型に変化し効率化しチェン展開された。昨今よく耳にするフランチャイズ店長と本部の奴隷契約問題云々等も恐らく此の時代の政治体制の下システム化され現代に表象される一例で有ろうが此の辺りから珈琲の第二形態も始まる。一九九六年銀座に珈琲業界の黒船スタアバックス一号店が開店し所謂シアトル系なるものが続々と日本に上陸した。シアトル系珈琲とはエスプレッソ系ドリンクを主とするもので有り濃縮されたエスプレッソをミルクで割るラテや其処に各種シロップ等を付け足しアレンジする珈琲が流行しチェン店のカップ片手に街中を歩く姿はファッション化された。時代と共に珈琲は益益身近な物と成り二〇一〇年以降に珈琲の第三形態が囁かれ始める様になった。「第三の波」とも喩えられる此の現象は珈琲を日常的に呑む人が増える事に拠り産地や品種に焦点を当てる個人店グルウプが現れた事に気を発し彼らは此れまで閉鎖的だった珈琲の職人的な世界を透明性あるものにし一般的な認識を高めた。「美味しい珈琲」を模索する中で焙煎や抽出の技術を磨く一方でなく、栽培、収穫、処理、選別、出荷、輸送、保管と云った全てのプロセスで徹底した品質管理を可視化するスペシャルティコーヒーの理念に共鳴した個人店はワインやクラフトビイルの様に個性を持つ商品を扱い生産者との関係性を作った。消費者と生産者の橋渡し役で有るバリスタは純粋な情熱を持って珈琲に接し其の熱にあたって近年「美味しい珈琲」は机上の鉛筆の様に身近な物と成った、と、今目前に現象化する液体の背後には大体此の様な歴史が持続し戯れ生成されて居る訳で有るが所で時代による珈琲の「在り方」には時々の政治形態と密接な関係性が有るのではないか? 又其之様なものの見方をすると今君が大学で学ぶ事と珈琲の間には実は深い関係性が有るのではないだろうか!

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