二 純粋理性がその思弁的使用においてはそれ自体不可能であるような拡張を、その実践的使用においては為し得る権能について 112-125頁

 我々は、道徳性の原理に基づいて〔自由〕の原因性による〔意志〕の規定根拠をして、感性界の一切の条件を超出せしめるような法則を樹立した。

 また我々は、可想界に属するものとして規定され得るような意志の主体(人間)を、純粋悟性界に属するものと考えたばかりでなく、この意志の原因性に関しても、感性界の自然法則と同一視され得ないような〔道徳的法則〕を介して規定したのである。

 こうして我々は〔純粋理性の実践的使用〕においては感性界の限界を越えて認識を拡張した。

 しかし純粋理性批判は、いかなる思弁においてもこのような越権を無効であると言明しているのである。

 するとこの場合に、純粋理性の実践的使用と理論的使用とは、それぞれの使用における理性能力の限界規定に関してどのように統一され得るのだろうか?

 以下、ヒュームの見解に対する批判が続く113-119頁迄(経験論の原理、懐疑論の導入、それらを理性批判によって断絶したこと等…)

※ヒュームについて

 ところで〔原因性〕のカテゴリーを経験の対象に適用するのではなく、経験を超えたところにある〈物自体〉に適用するとしたらどういうことになるだろうか?

 〔原因性〕のカテゴリーを対象に適用するための条件は直観にほかならないが〈物自体〉から直観は与えられない。

 するとノウーメノンとしての対象に関して理論的認識をもつためカテゴリーを適用することは不可能である。

 それにも拘らず原因性の概念の客観的実在性は依然として存続し、ノウーメノンに関して実践的な目的のために使用できるのである(理論的認識をもつためにノウーメノンを表象するという規定をもつことはできないにせよ)

 原因性の概念をノウーメノンに適用する条件を発見するために、「なぜ我々はこの概念を経験の対象に適用するだけで満足せずに、これを物自体にも適用したがるのか?」という事情を振り返ってみると、我々にこの概念をノウーメノンに適用せざるを得なくするものは理論的意図ではなく、実践的意図であることが明らかになる。

 悟性は理論的認識において対象に関係するが、この関係以外にも〔欲求能力〕に関係する。そこでこの欲求能力は〔意志〕と呼ばれ、また純粋悟性(このような場合には理性)は、法則の表象によって実践的である限りにおいて〔純粋意志〕と呼ばれる。

 純粋意志(純粋実践理性)の客観的実在性は、道徳的法則においてアプリオリに与えられる。ところで意志の概念のなかには、すでに原因性の概念が含まれているため、純粋意志という概念のなかには、自由による原因性の概念が含まれているわけである。

 自由による原因性とは、自然法則によって規定され得ない原因性のことである。

 経験的直観は自由な意志の実在性を証明するには役立たないが、それにも拘らず純粋意志の客観的実在性は、理性の理論的使用のためではなく、実践的使用のため、アプリオリで純粋な実践的〔道徳的法則〕において、その正当性が完全に証明されているのである。

 自由な意志(純粋意志)を具えているような存在者の概念と言えば、それはノウーメノン的原因の概念にほかならない。

 ノウーメノン的原因の概念はまったく純粋悟性から発生したものとして、一切の感性的条件にかかわりがないため、自己矛盾を含むことなくフェノメノン(現象的存在)に制限されることなく純粋な悟性的存在者としての〈物自体〉にも適用され得ることになる。

 しかしこのような適用は直観によって裏付けされ得ないため、ノウーメノン的原因は、たとえ理性の理論的使用に関しては可能な概念であるにせよ、しかし空虚な概念にすぎない。

 ところで私は理性的存在者がどのようなものであるかを理論的に知ることを要求しているのではなく、私としては原因性の概念を自由の概念と、原因性の規定根拠としての道徳的法則に結びつけるだけで十分であった。

 私がヒュームに倣い、実践的使用における原因性の概念に〈物自体〉に関しのみならず感官の対象に関しても客観的実在性を認めないとしたら〔無〕は使用されるわけにはいかないから、この概念はその意味をすべて失い、理論的に不可能な概念として使用に堪えないと申し渡されたであろう。

 たしかに経験的条件に制約されていないような原因性の概念は理性的には空虚である(直観を欠くため)が、しかしこの概念に意義を与えるのはかかる客観ではなくて道徳的法則であり、従って実践的関係においてだけの話である。

 それだから私はこの概念に理論的な客観的実在性を規定するような直観をもつわけではないが、それにも拘わらずこの原因性の概念は人間の道徳的心意、あるいは格律において具体的に表示されるような現実的適用をもつ。

 ところで或る純粋悟性概念の客観的実在性が超感性的なものの領域に導入されると、今度はこの客観的実在性がほかのすべてのカテゴリーにも同じ客観的実在性を与えるのである(この場合の実在性は実践的にのみ適用され、対象の理論的認識にはいささかの影響力をもつものではない)

 次章で述べるように、これらのカテゴリーが関係するのは常に叡智者としての存在者だけに限られ、実践的なものだけに限られた話であり、我々は純粋理論理性の尻押しをしてこの理性を超感性的なものに熱中させるつもりはさらさらないのである。

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