見出し画像

6.令和元年のホットコーヒー(コーヒーの社会学)

 日本人とコーヒーの接触は、ペリー来航以来、長崎や横浜などの貿易港に開店した、西洋料理店のメニューの一部で出されていたものにあるようで、文明開化をみても、そこにはまだ、コーヒー店の存在はありません。

 日本で、最初の喫茶店は、一八八八年に東京に開店した『可否茶館』とされていますが、これがいかにおくれていたかというと、日本とおなじように近代化のおくれた、ロシアで、一八八〇年に出版された『カラマーゾフの兄弟』の中に「スメルジャコフ式コーヒー」という「家カフェ」があることをみても、明らかなようです。

 それでは、喫茶店ではなくカフェ、はどうなのかとWikipediaをみてみますと、日本最古のカフェ『カフェープランタン』という店をみつけました。文化人が集まるこの店は、常連客から会費を募り、運営資金にする、日本初の「会員制カフェ」のようです。会員の名には、森鴎外、永井荷風、政宗白鳥、谷崎潤一郎、黒田清輝などなど。

 『カフェーパウリスタ』は、ブラジル移民送出しの功績によって、ブラジル政府からコーヒー豆を無償提供され、大隈重信の支援を受けて開業した、輸入販売業者です。「銀ブラ」という言葉は、銀座をブラブラするという意味があるようですが、じつはもうひとつ『カフェーパウリスタ』でブラジル・コーヒーを飲むという説も、あるようです。

 ちなみに『カフェーパウリスタ』の考えた〈鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱き〉という宣伝文句は、タレーランの〈よいコーヒーとは、悪魔のようにくろく、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い〉に呼吸しているようです。

 フランス革命時、僧侶服を脱ぎ、ナポレオンが現れると軍服を着て、没落と同時に軍服を脱ぎ、ウィーン会議に乗り込み、直ちに平和条約を整えたこの男は〈会議は踊る、されど進まず〉で有名な人物です。きっと美食家のタレーランは、用意したフランス料理で、会議を惑わせたのではないでしょうか。もちろん、食後のコーヒーも忘れることなく。

 獅子文六の『コーヒーと恋愛』は、戦後の世の中がインスタント・コーヒー色に染まる中、自分たちの「可否道」を世間に発信したいと願う、可否会の同人たちの話しです。

 戦時中、コーヒー禁輸で、苦痛をなめた日本人も、かなり多い。ことに、戦後のコーヒー嗜好は、空前の盛況で、最近、インスタント・コーヒーが出現してからは、どこまで伸びるか知れない勢いとなった。(略)日本人のコーヒー嗜好が、急激に伸びて、誰も彼も、飲むようになったからであるが、その需要をあおったのは、何といっても、インスタント・コーヒー・ブームである。(略)「でも、インスタントの普及によって、コーヒー愛用者人口は、めっきり増加しましたからね。そのうちに、インスタントでは、もの足りなくなって、ほんとのコーヒーが、飲みたくなれば、わが国のコーヒー文化向上は、期して待つべきでしょう」(略)「それも、一理ないことはありませんね。例えば、わが国の民主主義―敗戦によって、一夜漬けのものが、押しつけられました。つまり、インスタントです。しかし、それを飲み慣れてくると、次第に、不満が起きてくる。そして真の民主主義とは何物であるかという疑問と、要求とが、起こりつつある。これは、喜ぶべきことでありまして…」

 一八九九年、アメリカに在住していた日本人科学者、カトウ・サトリ博士によって、インスタント・コーヒーが発明されました。インスタント・コーヒーは米軍兵士が、戦場で飲むことに歓迎され、第二次世界大戦後、進駐軍が持ち込んだことを切欠に、日本中に広まりました。

 ここから話をぐっと抽象化し、大江健三郎の『万延元年のフットボール』を引用しながら、戦後日本のコーヒーについて、考えてみたいと思います。

 それはわれわれの家同様に古く、万延元年の一揆にも谷間で根所家と二軒だけ同じく襲撃された、醸造家の酒蔵の旗竿にかかげられている花やかな旗だ。いま醸造家の一族は村を去り、買収された土蔵の壁が打ちぬかれてスーパー・マーケットがつくられたのである。
 「旗に、3S2Dと縫い取ってあるが」と僕は興味をひかれていった。「あれはいったいどういう略語だろう?」
 「SELF SERVICE DISCOUNT DYNAMIC STOREよ。昨日見た地方紙の折りこみ広告に出ていたわ。スーパー・マーケット・チェーンの持主がアメリカに旅行して学んできた方式なんでしょう。そうでなくてあの英語が日本人の発明だとしても、ともかく、力強くて立派な言葉だと思うわ」と、うさんくさい調子をこめて妻がいった。

 『万延元年のフットボール』は、戦後文学の最高傑作であると言われます。もちろん、その通りだと思いますが、この、高度に抽象化された話は、ひとつの〈記号〉が読み手の状況によって、カメレオンのように形を変える、日本文学史上の最高傑作だと、わたしは個人的に思っています。そこに映るものは、戦後日本の姿、そのものであり、例えば、これから引用する文章を〈谷間の村=日本〉に置き換え、読んでみてください。

 「いまでは、谷間のどの家も餅を搗かないからねえ。誰もがスーパー・マーケットで、糯米と交換するか現金を出して買うかするんですよ。そういうふうに谷間の生活の基本的な単位が、ひとつずつ形をうしなっていくんだなあ。草の葉の細胞が崩れて行くみたいなもんだ。草の葉を顕微鏡で見たことがあるでしょう(略)葉の細胞のひとつひとつが、きまった形態をもっているね? それが壊れてぐにゃぐにゃの無形態なものになると、その細胞は傷ついたか死んでしまったかのどちらかなんですよ。そうした形の無い細胞が増えると草の葉は腐ってしまう。谷間の生活も、基本の要素がひとつずつ無形態になって行くと危ない筈だがなあ、そうでしょう? (略)植物の比喩はわれわれにしたたか応えた。

 次の文章を〈朝鮮人=アメリカ型の資本主義・新自由主義〉〈大蒜=インスタント・コーヒー〉に置き換え、読んでみてください。

 「チマキは森に伐採労働に行く連中の、谷間に古くからある携帯食なんだよ。(略)このチマキは十分においしいが大蒜の匂いがするね。チマキはもとより、谷間の食べ物に、大蒜を入れることは、すくなくとも僕が谷間にいた時分にはまったく無かったんだ(略)谷間の風習が変わっていく典型的な例だよ、それは! 戦争前までは、村の生活に大蒜はいささかも関係がなかったねえ。ところが戦争が始って、木を伐りに来た朝鮮人労働者が部落を作ると、あすこの朝鮮人どもは大蒜という臭い根っ子を食べる軽蔑すべきやつらだという形式で、大蒜が村の人間の意識に入ってきた。(略)村の人間は、朝鮮人たちを森の伐採労働に強制的に連れて行く時、自分たちの優位を誇示しようとして、チマキを弁当に持ってくるのでなければ森に入ってはならない、とかなんとか意地悪したんだねえ。そこで朝鮮人たちもチマキを作ることになったのだけれども、かれら自身の味覚に忠実に、大蒜を入れる発明を加えたんだろう。それが逆に、谷間のチマキ製法に影響して、大蒜による味つけが村に入りこんだというわけですよ。村の人間の空威ばりと無定見とで、そういうふうに谷間の風習が変わってゆくんだなあ。大蒜など村の味つけの伝統に含まれていなかったのに、今ではスーパー・マーケットの流通商品で、天皇を二重、三重にホクソ笑ませているんだ」

 〈スーパー・マーケットの天皇=グローバル・チェーン〉の記号に置き換えられることが可能なことは、次の文章からも、推測されます。

 僕は進駐軍のジープが最初に谷間に入って来た日の光景を明瞭に思いだす。スーパー・マーケットの天皇の一行は、あの真夏の朝の穏やかに勝ち誇った異邦人たちに似ている。はじめて自分の目で具体的に国家の敗北を確認したその朝も、谷間の大人たちはなかなか被占領の感覚に慣れることができなくて、異邦の兵士らを無視し自分たちの日々の作業を続けながらも、かれらの躰全体には「恥」が滲んでいた。ただ子供たちだけが新状況にすみやかに順応してジープについて走り、ハロー、ハロー、と国民学校で即席の養育をうけた声をあげて缶詰や菓子をあたえられた。

 次の文章を〈フットボール=SNS〉に。

 「谷間の若い人たちはみんな追いつめられた気持ちなのよ(略)かれらはそれを表現しないけれども、確かに重い不満を抱え込んでいるわ。そして見通しときたら真暗いのよ、どんな実直な働き者の青年にも! あの子たちは楽しんでフットボールを蹴っていたのじゃなくて、他には絶対になにもやることがないから思いつめて暗雲にキックしていたんだわ」

 次の文章は、とても難解です。そこにある〈記号〉は、高度に抽象化され、それぞれの〈対立概念〉に、呼吸しているようですが、わたしには、現在の日本の姿、そのものにみえます。

 「蠅を叩きつぶしたところで、蠅の『物そのもの』は死にはしない、単に蠅の現象をつぶしたばかりだ、とショペンハウエルがいっているのね(略)いまや特にスーパー・マーケットの天皇が朝鮮人だということが、もっとも大きなファクターだ。連中(谷間の人間)は自分たちの先細りの生活の悲惨さを見通してきた。そしてこれまで森の中で自分たちがもっとも惨めな種族だと感じてすっかり怯みこんでいた。ところが戦前・戦中の朝鮮人への優越感の甘い記憶を思い出したんだ。かれらは自分たちより惨めな朝鮮人という賤民がいたという再発見に酔って、自分たちを強者のように感じ始めたのさ。そういう蠅みたいなかれらの性格を集団に組織するだけで、おれはスーパー・マーケットの天皇に対抗し続けることができるだろう! あいつらはまさにちっぽけで卑小な蠅どもだが、数多くの蠅の力はまさにそれゆえに特別だ」

 さて、わたしは『万延元年のフットボール』に寄り添いながら「コーヒーの社会学」を検討することに努めましたが、その試みは、完璧に、失敗していますが! 『万延元年のフットボール』という作品のパワーに、飲み込まれていますが! もうひとつ、この文章を書きながら、わたしの頭に〈本当の事を言おうか〉が過るほど、わたしは、ガルシア・マルケスを読みながら、コロンビアのコーヒー産地を、訪ねなければいかんですが! 「コーヒーの社会学」という命題には、いつか腰を据えてしっかり対峙し、もう一度挑戦してみますが!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?