崇高の分析論メモ(144〜205頁)

 美は不定な悟性概念の表示と見なされるが、崇高は不定な理性概念の表示と見なされる。それだから適意は、美の場合は性質の表象と結びつくが、崇高の場合には分量の表象と結びつく。

 我々は、嵐のなかの大洋そのものを、崇高と呼ぶことはできない。かかる海洋そのものは怖しい光景である、そして我々がこのような怖しい光景を観て或る種の感情(それ自身崇高であるようは感情はなふさわしい心的状態)をもつためには、我々の心意識をすでにさまざまな理念で充しておかねばならない、即ちその場合に心意識は感性を捨てて、いっそう高い合目的性を含むような理念を事とするように鼓舞されるのである。

 崇高と称せられる自然は、自然における現象のうちでその直観が現象の無限性という理念を伴うような現象にのみ存する。
 現象の直観が無限性の理念を伴うということは、取りも直さず我々の構想力が対象の量的判定において最大の努力を払っても、なおかつその努力はかかる理念に適合し得ない、ということにほかならない。

 真の崇高性は、自然的対象において求められるものではなくて、判断者〔主観〕の心意識においてのみ求められねばならない、この場合に自然的対象の判定そのものは、心意識のかかる状態を生ぜしめる機縁を成すにすぎない。
 訳もなく乱雑に逆巻く海洋などを崇高と呼ぶ人があるだろうか。しかし心意識はかかるものの判定において、自分自身が高騰されたことを感じるのである。

 恐怖の念を懐く人は、自然における崇高なものを判断することができない。このような人は、ぞっとするような対象から眼をそむけようとする。戦慄を覚えさせるようなものが自分の身に迫っていると考えたら、かかるものに適意を感じ得る筈はない。
 頭上から今にも落ちかからんばかりの岩、大空に盛りあがる雷雲が電光と電鳴とを伴い近ずいてくる有り様、すさまじい破壊力の火山、暴風、大洋等は、我々の抵抗力をかかるものの威力に比して取るに足らぬほど小さなものにする。
 しかし我々が安全な場所に居さえすれば、その眺めが見るに恐ろしいものであればあるほど、これらの光景は我々の心を惹きつけずにおかないだろう。
 我々はかかる対象を好んで崇高と呼ぶのである。これらのものは、我々の心力を日常の平凡な域以上に高揚させ、まったく別種の抵抗力を我々のうちに開顕するからである。そしてこのことが我々に、見るからに絶対な自然力に挑む勇気を与えるのである。

 自然は、我々のうちに恐怖の念を喚びおこすから崇高と判定されるのではなくて、我々が常に気遣っているところのもの(財産、健康、生命等)をすべて小であるとし、我々の人格性に対する強制力と見なさないような力を我々のうちに喚起するからこそ崇高と判定されるのである。
 それだから自然が崇高と呼ばれる理由は、まったく次の点にある、即ちー自然は構想力を高揚させる、するとこの高揚された構想力は、我々の心意識かその本分に具わる崇高性を自然そのものにすら優越する性質として自覚し得るようは状態を表示するにいたる、ということである。

 自然のなかにある無数の美しい物については、すべての人の判断が我々の判断と一致することを期待できるが、自然における崇高なものについて判断する場合には、我々の判断はそれほどすらすらとほかの人達に受けいれられる見込みはなさそうである。
 自然における崇高性について判断し得るためには、美的判断力ばかりでなく、その根底に存する認識能力〔構想力と理性〕もまた美の場合よりも遥かに高度に開発されていることが必要だからである。
 実際、心の開発によってすでに用意されている我々が崇高と呼びなすところのものは、道徳的理念の発達していない粗野な人間にとっては、もっぱら威嚇的なものと思われるだけだろう。

 純粋で無条件的な知性的適意の対象は、威力を具えている道徳的法則にほかならない。そしてこの威力は、我々が犠牲を払うことによってのみ美学的に識知せられる。
 それだからかかる適意は、美学的な側から見れば感性に関して消極的であり、およそ感覚的関心に反する、しかし知性的な側から見れば積極的であり、或る種の関心と結びついているのである。
 そこで上述したところから次のことが明らかになる。
 それ自体合目的な知性的(道徳的)善が美学的に判定されると、かかる善は美というよりもむしろ崇高と考えられねばならない、従ってまた愛や親しみ深い愛好などの感情よりもむしろ尊敬の感情を喚びおこすのである。人間の自然的本性は、みずから進んでかかる善と一致するのではなくて、理性が感性に加える強制によってのみこれと一致するものだからである。

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