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天丼に勝つ

────エッセイ

蓋を開け、暫しその黄金の光景を眺める。揺蕩たゆたう心に身を任せたあと、えいっとばかりに箸をのばし海老を掴む。その瞬間、私は勝ったと思うのだ。

何に勝ったか、と問われれば己に勝ったと答える。元来私は中庸を好み、とびきりをいとう。中学の頃、試験の答案用紙を得点順に名を呼びながら返す教師がいた。普段の授業は分かりやすく、どちらかといえば好感を持てる教師だったが、その返却の仕方は解せなかった。学問ができるでもなく悪くもなかった私は、滅多にないが最初に答案用紙を返されることもあった。恥ずかしいとも面映おもはゆいとも違う。皆が注目するなか、席を立ち教壇に向かうときはばつが悪く、ただただ中庸でいたかったのだと思う。中庸といっても中央はいけない。中央よりも上方、上から数えて片手に余るくらいがよい。両手に余っては中央に寄ってしまう。中庸の塩梅は相対で決まり、自分では選べないから難儀である。

まあそんなことは閑話休題として、天丼だ。天丼の主役は誰がなんといおうと海老だろう。もちろん、彩り野菜丼などという変化球を楽しむこともあるが、ど真ん中の直球はやはり海老だ。だから海老を食べる順番でその人の性格というか人間性が見えてくる気がするのだ。

海老をはじめに食らう人は豪傑。自分の欲求に正直で、今を大切にする人。小事にこだわらず果断かだんに富む人物。最後に食らう人は思慮深い。一つのものごとについてじっくりと向き合い、用心深く答えを導く人物に見える。

中庸な自分はどうか。まず、はじめの一つから海老を外す。豪傑は中庸に非ず。中央に置かれた海老を視界から消し去りおもんぱかる。烏賊いかがあるときはよい。まずはその白身にかぶりつく。烏賊の弾力ある歯応えに魅了され、烏賊こそが天丼の主役であると信じて疑わない御方もいるだろう。そのふりをして烏賊にかぶりつけば、豪傑の皮を被った中庸な羊の出来上がりだ。好きな時期をみて海老の身を頬張ればよい。

問題は、烏賊がないときだ。帆立やきすなどの高級な素材はあるはずもなく、おのずと選択肢は野菜に絞られる。無難は茄子だろう。歯応えに変化を与える蓮根などの根菜類を初手にするのは良くない。二手、三手目が望ましい。そこで茄子だ。茄子は揚げたてが美味い。どの天ぷらも揚げたてがうまいのだが、茄子は格別だ。

茄子の次は茸類がいい。厚肉の椎茸なぞに出会えれば、初手に食べたくなるが我慢する。揚げたての椎茸は危険だ。かぶりつき摂氏70度の旨味つゆが舌に触れれば火傷するは必至。それでは残りの天丼を満喫できぬ。ニ手あたりで慎重に食べるのがよい。

そしていよいよ三手目。中庸を好む私の視界にようやく海老の姿が目に入る。海老が二本あれば迷わずいく。一本しかないときは躊躇う。丼の中には海老、蓮根、南瓜にえりんぎ。一度蓮根で歯応えに変化を加えるのもいい。海老の食感に似るえりんぎを食すのもよい。だが、やもすると残りの具材は三つとなり、端から見れば海老を最後まで大事にする思慮深い人物に見られるやもしれぬ。それでは中庸にならぬ。中庸は誰の目にも留まらぬ存在であってこそ中庸なのだ。

そんな愚鈍な頭で天丼を食べることが多い私は、たまに初手で海老を食べたときに中庸を超え、豪傑に一歩近づいたと感じ己に勝ったと思うのだ。



なんでこんな文章を書き始めたかというとですね。きのう天丼を食べたんですね。

なんで勝った!って思うのか文章にしてみようと書き出したら、なぜか文豪調の文体になってしまいました。 (^^; 難解な漢字をわざと使ってるから読みづらいと思うけど、書いてて楽しかったなぁ。たまには普段と違う文体で書くと頭の体操になっていいですね😊



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