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月と氷と三角関数

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ESSAY 1_1


あれはたしか

幼稚園の年中か年長のときで、まん丸のでっかい月が薄明りが残る空に浮かんでいた。公園からの帰り道、父と歩きながら不思議に思ったんだ。

「おとうさん、どうしてぼくがあるいても、月はずっとおなじところにうかんでるの?」

電柱や看板、家の塀は、見える角度や位置が歩くたびに変わっていく。でも、月はぼくの右斜め45度の空の上でじっと動かない。

「いっぱいはしったら、ぼくのうしろに月がみえるの?」
「たしかめてごらん」

父とつないでいた左手を離し、ぼくは走り始めた。右斜め45度に月を見上げながら家の前を通り過ぎ、まっすぐ走り続けた。



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ESSAY 2

30歳を超えたときに転職しようと思った。もっと大きな仕事がしたい、雑誌に載るような誰もが憧れるプロジェクトを担当したい。そんな単純な理由ではないけど、根っこにあったのはそんな思い。転職活動は1年以上続き、受けた会社も両手の指では足りないほど。その中には、日本を代表するデザイナーの事務所もあった。

その事務所は、大きな公園に隣接する閑静な住宅街にあり、真っ白な壁と天然木の扉のコントラストが印象的な佇まい。ドキドキしながら扉をたたくと、AXIS(日本で最も注目されるデザインメディアのひとつ)の表紙を飾ったままの姿でAさんが立っていた。

憧れのデザイナーと対峙する時間は、面接というより芸能人にでも会っている感覚で、高揚した気持ちでポートフォリオを見せながら自分の作品を説明した。「へぇ、面白いね」という言葉に浮足立つ。

「課題を出すから、1週間後にまた来てくれる?」
第一関門突破! 会社にいるとき以外はその課題に没頭した。土日も半徹夜で仕上げたデザインは、自分の力を出し切ったと言い切れるものだった。

真っ白なオフィスで再び会ったAさんは前回と同じ服装。一流デザイナーは同じ服を着るルールでもあるんかな?と思う。作品のプレゼン中、Aさんは真剣なまなざしを作品とぼくの目に交互にぶつけてくる。フレンチポップスが流れる部屋に緊張感が満ちていた。

30分程のプレゼンが終ると、よしっ!とAさんは立ち上がり「めし食いに行こう」と上着を羽織り歩き出した。

事務所からほど近いイタリアンで少し早めのディナー。Aさんは穏やかな表情で僕を質問攻めにした。部活なにやってたの?ご兄弟はいる?お酒すき? 瞬く間に時間は過ぎ、ドルチェを平らげるまで、あっという間だった。

「もう一軒、付き合ってもらっていいかな? お気に入りの場所があるんだ」

細い階段で地下に降りると、店名もない重厚な扉。扉には、とても小さなカクテルグラスの形をした真鍮製のプレートだけが貼ってある。そこはカウンター席しかないとても小さなBARだった。今まで入ったことがなかった大人のBARだ。

「お久しぶりです」
Aさんに向けた笑顔のまま、マスターはぼくにも丁寧に会釈をする。今日はゆっくりと飲みたいんだ、というAさんの言葉に頷いたマスターは四角い氷の板を取り出した。アイスピックでコンっコンっと数度刺すと氷の板が音もなくスパっと割れる。それを数回繰り返すと2つの立方体のアイスブロックが出来上がった。プロの技に見とれるぼくを見て、Aさんは上機嫌だ。

シャッシャッシャッ
立方体だった氷は、ピックで角を削られカタチを変えていく。店内に流れるJAZZと氷が削られる音のセッション。時間の流れが、ゆっくりと遅くなる感覚に包まれる。

カランっ
ロックグラスと氷の触れる音。静かに注がれる琥珀色のウィスキーが氷を包み、湖に浮かんだ月のように、丸い氷が輝いて見えた。

名称未設定 1

2時間ほどの会話。娘が二重飛びをできるようになったんだ、と嬉しそうに話すAさんの顔と心地よい時間の感覚を覚えている。

後日、Aさんから不採用の連絡を受けた。悔しかった思いは、氷が溶けるように薄らいで今では遠い記憶になった。でも、あのとき丸い氷で飲んだウィスキーの味は、色あせることはない。

月見酒

月とお酒にまつわる歴史は古い。奈良・平安時代の貴族が始めたとされる月見酒も、そのひとつ。お酒を酌みながら名月を愛で、舞楽や歌合せとともに宴に興じたとか。当時の貴族は、空を見上げて月を眺めるのではなく、水面や盃の酒に映った月の姿を愛でたとも言われている。

さらに、ホツマツタヱという古代大和ことばで綴られた叙事詩にこんな記述があるらしい。

器に、月が逆さに写り映えるのを楽しんで飲みほしたところから盃(さかずき・逆月)という言葉が生まれた

ホツマツタヱは学会や一般的にも偽書(ここでは紀元前に書かれたという真偽が定かでないという意味)とされている。語源は諸説あるのが通例、ウソもホントもない世界。どの説を信じるか、それはその人しだいだ。

ぼくは、夢のある物語を信じたい。

お月見の日、好きな飲み物に丸い氷を入れ、手のひらの中で月に見立て愛でる。表面積が小さく溶けづらい丸氷は、秋の夜長を楽しむのにもぴったりだ。氷の月で月見酒、いいかもしれない。


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ESSAY 1_2


いくら走っても、月は右斜め45度からぴくりとも動かない。とんでもなく遠くまで走った記憶があるが、実際は2、300Mだったと思う。園児だったぼくの息はゼーハーと悲鳴をあげていた。

「どうだった?」

少し遅れてあとをついてきた父が聞く。ぜんぜんうごかないよ、と言うぼくの手を握り、行き過ぎた道を家まで並んで帰った。

「地球から月まではとっ~~ても遠いんだ。だから少し走ったくらいじゃ月が見える角度は変わらない。高校生になって三角関数というのを習うと、タンジェントというな...」

幼いぼくの質問に父は難しい説明で答えることがよくあった。雨上がりの道、みずたまりの虹色にひかる滲みを見つけたときも「それは光の干渉現象といってな…」とちんぷんかんぷんなことを話し出す。そして決まって「大きくなったらわかるよ」と言った。その父の表情が好きだった。
繋がれた右手の先を見あげながら家に帰った、あの日。

たしかに月が照らしていた
幼いぼくと父の笑顔を



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こちらの企画への参加作品です


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