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言葉の色

言葉の色ってあるよな、と思う。主語が小さい言葉は色が濃くて、大きい言葉は色が薄い。

「クラスのみんなが持ってるんだよ」
長男が四年生のとき、Nintendo Switchが大ブームになった。ひとり、ふたりと買ってもらえた子が増えてきて、Switchを持ってる子同士で遊ぶことも多くなった。「みんなって、何人が持ってるの?」。長男から返ってきた答えは、クラスの1/4程度のお友だちの名前。主語を大きくして説得力を持たせたいのは、大人も子供も変わらないのかも。

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オリンピックが近づくにつれ、関連する話題が多くなってきた7月、文月、夏の始まり。色々な言葉が目に飛び込んでくるようになった。開会式まで一週間を切ると物議を醸すニュースが次々と流れてくる。

さまざまな記事を読んだ。そして、ニュースサイトのコメント欄を読んで感じることがあった。それは、「読める言葉」と「読めない言葉」があること。読めない言葉は、たいてい主語が大きい。学校のみんなが、地域の多くの方が、くらいならまだいい。国が、憲章が、国際社会が、と主語が大きくなるほど目がすべってしまう。網膜には写ってるけど頭には入ってこない感覚。

読める言葉は、「肯定・否定・擁護・批判」意見の種類は関係なくて。自分の考えとは違っても、頭にきちんと入ってくる。「そうなのか。もっと知りたい、調べたい」と、ぼくの行動を促してくれる言葉。否定的な意見でも、その人の目線で語られる言葉には説得力がある(それに同意する / しないは別のはなしだとしても)。

気持ちが見える言葉には、色を感じる。理由がパーソナルであればあるほど、色は濃い。色があるから「ぼくは青が好きだけど、あなたは赤が好きなんですね」という会話ができる。相手が透明だと会話ができないし、そもそも相手が見えない。

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主語が大きい言葉を書くと、気持ちがよいのかもしれない。「国際社会が許してくれるはずがない!」と書き込めば、自分までスケールが大きくなった気分になるのだろうか。でも、そんな言葉を繰り返していたら。その人の言葉は、どんどん色が薄くなってしまう。いつか透明になって、誰の目にも止まらなくなってしまう。本人だけが気づかずに、色のない言葉を書き続ける姿はちょっと切ない。

ぼくも主語が大きい言葉は書かないようにしてるけど、気がつかないうちに色がない言葉を書いてたら怖いな、と思う。主語が大きい言葉は、一見キレイに見えるけど、個性のない色だと自覚したい。

フグも身の状態だと白色を感じるけど、薄く切れば透明に近づいて、お皿の柄が見えてしまうもの。キレイに見えるフグ刺しみたいな言葉より、どす黒くてもマグロのブツ切りみたいな、色が濃い言葉が好きだ。そんな言葉を、ぼくも書いていきたいと思う。

あっ、誤解がないように書いておくと、フグ刺しは一回しか食べたことがないけど大好きです。もちろん、マグロのブツ切りも大好き。刺身、好きなんですよね。(^ ^)



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