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[2022年]主な仕事まとめ

三が日も過ぎ、遅ればせながら、2022年の主な仕事をまとめた。

(1)自主企画
・「『flows』を見る/読む」、iwao gallery、2022年8月19日・20日
協力:磯辺加代子(iwao gallery)、岡安賢一(岡安映像デザイン)、谷口昌良(空蓮房)、野口忠孝(ターデス株式会社)、前野健太、平野篤史(AFFORDANCE)、吉江淳(吉江淳写真事務所)

(2)キュレーション
・「都美セレクション グループ展 2022 たえて日本画のなかりせば:東京都美術館篇」、東京都美術館、2022年6月10日―7月1日
出品作家:泉桐子、大平由香理、尾花賢一、親指姫、金子富之、金子朋樹、菊地匠、硬軟、春原直人、多田さやか、谷保玲奈、⻑沢明、中村ケンゴ、ベリーマキコ、歩火、山下和也(ちやのある Le Cha noir)、山本雄教
制作協力:荒達宏、上領大祐、國友勇吾、弦間康仁、笹⾕遼平、島⽥隆⼀、杉原出雲、鈴⽊⼀成、関野圭一郎、塚田めぐみ、⻄澤諭志、山口明子、吉江淳、吉岡直将
ビデオグラファー:岡安賢一
​グラフィックデザイナー:丸山晶崇
・東北芸術工科大学 開学30周年記念展「ここに新しい風景を、」、東北芸術工科大学 THE WALL・THE TOP、2022年9月3日―25日
出品作家:アメフラシ、飯泉祐樹、F/style、かんのさゆり、近藤亜樹、近藤七彩、多田さやか、東北画は可能か?、西澤諭志
アートディレクター:小板橋基希(akaoni)

(3)出品
・東北芸術工科大学 山形ビエンナーレ2022「 現代山形考」(2022年9月3日―25日)に石原葉さんとのユニット「藻が湖新聞社」として参加

(4)刊行物(制作)
・著:小金沢智、写真:吉江淳、アートディレクション・デザイン:平野篤史『flows』小金沢智、2022年3月
・編集・執筆等『たえて日本画のなかりせば:上野恩賜公園篇』パラレルモダンワークショップ、2022年6月

(5)刊行物(執筆)
・「「齊藤圭介」から「サイトウケイスケ」へ、そしてまた別の誰か=「あなた」へ」サイトウケイスケ作品集『CLOSER』サイトウケイスケ、2022年1月
・章解説・作品解説等『東北画は可能か?』美術出版社、2022年7月
・「とある、美術館を必要とするすべての人へ」『とある美術館の夏休み』千葉市美術館、2022年11月
・「「誰か」ではなく「私」を生きるためのゲッコーパレード『ファウスト』」『ファウスト』パンフレット、ゲッコーパレード、2022年12月

(6)ウェブ(執筆)
・「「私」と「君」が「世界」で交差するとき」、林勇気個展「君はいつだって世界の入り口を探していた」(クリエイティブセンター大阪)ウェブ版美術手帖レビュー、2022年10月
・「私のいる場所について」、門眞妙個展「まあたらしい庭」(gallery TURNAROUND)note、2022年11月

こう書き記してみると、数は決して多くないが、なかなか大変な一年だった。「都美セレクション グループ展 2022 たえて日本画のなかりせば:東京都美術館篇」(6-7月)、「『flows』を見る/読む」(8月)、東北芸術工科大学 開学30周年記念展「ここに新しい風景を、」(9月)と、キュレーションと自主企画が連続し、その準備や最中の期間にも、『たえて日本画のなかりせば:上野恩賜公園篇』(6月)と『東北画は可能か?』(7月)の編集・執筆が重なった。まさかこれほど重なるとは…という思いがあり、堪えたが、多くの人たちと共同し、協力していただき、作り上げたものは私にとってはとても大きなものだった。

特に、今後ずっと考えていくことになるのではないかと思っているのは、美術における「私」と「公」について。例えば、キュレーションであれば、私は、それがどのような場所(公立・私立を問わず)で開催するものであれ、展覧会とはパブリックなものであると考えてきた。キュレーションという特定の場所・時間を占有して行う行為は、権威・権力と結びついてしまっているが、パブリックなものであるということは、できるかぎりそれらから距離をとろうと努め、なにより公共性を意識して行う(企画・実現する)ということである。

いっぽう、昨年は、父の死をきっかけとして私家版写真集『flows』を制作し、iwao galleryで自主企画「『flows』を見る/読む」を行った。私は、キュレーションに限らず、何かを書くということもパブリックな性質を持つと思っているが、では『flows』を作ろうと決めた際そのような意識があったかというと、なかった。制作にあたってのテキストを書き、写真集にタイトルを付け、完成してから人に見てもらうということをしている以上、無意識のうちに公共性を生じさせる行為をしているが、それはやはりこれまでとはまるで違う意識であったように思う。「私」というものが、ぐんぐんと自分の中で大きくなってきてしまっているという感触がある。

このことは、昨年書いた少ないテキストのタイトルにも如実にあらわれていて、呆れてしまう。「私」のオンパレードだ。

「「私」と「君」が「世界」で交差するとき」、林勇気個展「君はいつだって世界の入り口を探していた」(クリエイティブセンター大阪)ウェブ版美術手帖レビュー、2022年10月
「私のいる場所について」、門眞妙個展「まあたらしい庭」(gallery TURNAROUND)note、2022年11月
「「誰か」ではなく「私」を生きるためのゲッコーパレード『ファウスト』」『ゲッコーパレード』パンフレット、ゲッコーパレード、2022年12月

『ファウスト』パンフレットの「編集後記」で、原稿を依頼してくれた石原葉さんが、その動機について、「小金沢さんの展覧会から伺える「作品と現在に生きる私たちがどのように呼応するのか」という視点から《ファウスト》をどのように捉えたのか知りたい、という思いが強くありました」(34頁)と書いてくれているが、まさしくそうで、ここ最近の私は特に、「作品」(と呼ばれる、誰かが作った/作ってしまったもの)に対して「私」がどう反応したか/してしまったかという点に強い関心がある(ただ、この「私」とは、小金沢智という固有の主体だけを意味しているわけではないけれども、往々にその「私」とは小金沢智がひとつの起点にはなっている。だが、その「私」にはあなたも含まれている)。

さて、そんなことになってしまっていて、他方、「都美セレクション グループ展 2022 たえて日本画のなかりせば:東京都美術館篇」と東北芸術工科大学 開学30周年記念展「ここに新しい風景を、」は、前者は「近代」「日本画」、後者は「風景」をキーワードとして、「私」よりも広範な広がりをニュアンスとして持つ。それは、私が「キュレーションとは公共性が必要である」と考えているからだが、では、これらと『flows』が「遠い」かというと、私自身は、実はそう考えていない。

なぜなら、「近代」も「日本画」も「風景」も、私がこのふたつの展覧会で大切にしたのは、それらを主体的に語る/自分ごととして考えるということだった。たとえ対象がいかに大きな物・事であったとしても、「私」という立場からそれらを見つめることができないか。私は、もともとそういう気質を持っていたのだと思うが、2022年になって、それがいっそうクリアになって、そのことをより自覚した上で、しかしただ自分本位にということではない仕事の作り方・考え方が、ようやくできるようになってきたということなのかもしれない(そう思いたい)。

「公私の遠近」という言葉を、「都美セレクション グループ展 2022 たえて日本画のなかりせば:東京都美術館篇」のハンドアウト(「鑑賞の手引き」)の一節で中村ケンゴさんとベリーマキコさんについて書く際に使ったが、それは、2022年の私自身のことでもあった。「公」と「私」を行ったり来たりしながら、あくまでも足場は「私」に置き、2023年も仕事をしていきたいと思う。

写真:吉江淳

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