見出し画像

同じ歌、新しい歌

40歳になった。いよいよ大台だ、このままでいいのかという気がする、というLINEを同い年の学友へ送る。少し早くこの夏に40歳になった友人は、(40歳というのは、30歳になったときより)ショックが大きかった、と言った。わかる。

いっぽう、実は、早く40歳になりたいと思っていた。40代と言ったほうが正確か。これは、仕事と身体と両方に関わることで、前者は早く仕事ができるようになりたいという意味で、後者は早く見た目相応に見られたいという意味で。

20代後半くらいからちらほら確認できた白髪はだんだんと増えていき、いま、ずいぶん白くなってきた。自然にまかせて、染める気もなくそのままにしているが、これは、ただ自分の身体やストレスの問題なのか、そこに遺伝は関係するのか、けれども遺伝するならば私の父(昨年の12月に亡くなった)は白髪というよりも年齢に対して薄毛気味でもあったのでそれこそ遺伝するかもしれないと思春期の頃は恐れていたが、その点はしていないようなので(毛量が多く、いつも切っていただくのが大変なので)、よくわからない。

ともかく、身体というのは厄介なもので、白髪についてずいぶん、嫌なことを言う人もいた。仕事の関係者でも知人でも、言われるたびにその人とはできるだけ関わりを絶ってきたので、もうどうでもいいが、私が「若白髪」(という言葉もどうかと思う)であることは、「あなた」には何も関係がない、と思うことが20代以降これまで、それなりにあった。これは、それが私にとっては白髪であったというだけで、そこにはいろいろなものが代入可能なのではないかと思う。本人ですらどうにもならない身体のことに、いろいろ言いたい人がいるのだなぁと思う。放っておいてください。

さて、こんなことを言いながら、私が好きな絵、好きな美術、好きな作家、好きな本、好きな映画、好きな歌、そんなものたちが、変わらなくなってきたことに、今さらながら、大丈夫だろうか、と思いもする40歳という年齢だ。たとえば、ずっと同じ歌を聴いてしまう。はたまた、カラオケで歌う歌(とか歌手)がいつも同じだ。

変化を恐れているわけではないが、これは老いだろうか、と自問自答する自分がいて、間髪入れず、それは老いだと指摘する自分がいる。とはいえ、ただ新しいものに積極的になれるわけでもない。岡本太郎は『今日の芸術』(1954年)で、芸術は新しくなければならないと言ったが、いま、私の心境というか体勢ははたしてそうだろうか。カラオケが芸術であると言いたいわけではないのだが、これまでと同じもの、これまでに対して新しいもの、それらとどう関係を結べばいいんだろう…と書きながら、そう考える時点で、なんてかたいんだ、と思う。

職場の学生たちとのゼミがある。3年生の後期(10月下旬)からはじまって、今年で受けもって3年目になるのだが、今年度のゼミ生とは、その前段階のゼミ紹介ではじめて明確に提示して、定期的な読書会をはじめている。それこそ、初回では岡本太郎『今日の芸術』を読んでいる。

読書会のはじまりは、学生に対する年長者の役割として、これは読んでもらいたいという本があることがおおきな動機であるのだが、それだけではなくて、(学生に限らず)ひとと一緒に勉強をしたいということがある。さらに、教員の立場として読書会でのお題を決める過程で、(主に本屋などで)私自身も知らない本に手を伸ばす、ということを積極的にしたいという思いがある。特にそれがいい。一緒に読もうというのだから、自分本位ではいられず、そのセレクションに緊張感がうまれるのだ(学生との読書会ではでは、1冊ができるだけ1,000円台に収まるように選んでいるが、なんて素晴らしい本がたくさんあることだろう!)。

話が戻るけれども、カラオケに行って、「ある時代」や「ある感情」を共有している歌を、つい、「同じ場」の「誰か」が歌っているとき、ともに歌ってしまうことが私はある。迷惑かもしれない。迷惑だろう。でも、同じ歌を一緒に歌いたいという気持ち。他方、知らない・新しい歌も、誰かから聴きたいという気持ち。いや、さらに、あなたが知らないだろう歌を、私がカラオケという半公共の場であえて歌いたいという気持ち(半公共か!?)。そうして歌が、言葉が、空間が、ぐちゃぐちゃと私とあなたの身体と時間に入り乱れればいいのに。

写真:吉江淳、2021年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?