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建築にも色々ある。

建築にも色々ある。そう思うようになってきた。自分の建築が正しい、そう思い込んでいたが、、、
最近文章にすることをやめていた、理由は否定した文章を書きたくなかったから。そのものに対する別の表現がないか探っていた。というより良いものを書いていけばそれでいいのかな?とも思っていた。
が、そうすると多分年に1回書くか書かないかというような状態になってしまうし、良いところを見つけることも作業の一つだと思うようになってきた。まぁいっか!という気持ちでいろんな作品を観ると不思議と可愛らしく見えてくることもあるものだなと。

建築の話をすれば人は空に向かって建築を伸ばしたがる。もちろんその逆もある。前者はモニュメント的になってしまうし、後者は姿を消したがる。地下鉄の駅なんかはまさしく後者で不思議な面構えをして至る所に点在している。
スカイツリーを見る機会が増えた。ほぼ毎日見ている。ただただでかいモニュメントだ。美しさも気品もそんなものはない。押上という土地に建てたのだから仕方ないのだろう。これは皮肉ではなくて。照明の効果も見窄らしいし、オリンピックに向けたメッセージも野暮ったく見える。ただこの街にそびえ立っているこの建築を見ると気持ちが和む。完璧でなくても建築はできるのだと希望を与える。この建築に張りつめるような緊張感はない。愛されることもなければ大きく嫌われることもない。それは公共という言葉を使えばそれは素晴らしいことなのかもしれない、そう思った。東京タワーはそれに比べると品がある。凛と建っている。それはそれで良いのだけれど。スカイツリー、まぁいっか!とそう思う。ただスカイスリーが延ばす影はいつ見ても気になってしまう。この建築がどれだけの人に影を落としているのだろうか?と。

昨日は家族と食事会。焼肉を食べてきた。オーダーも抜け落ちていたり色々と気になるところはあった。ただそれが店の評価につながるわけではない。それではみっともないと思った。家族との食事会に完璧な接客は必要ない。おいしい料理があればいい。
以前チーフがこういった。おいしい、これを美味しいと書いてはダメだと。美しい味だけではだめだと。美しい盛り付けがあって美しい香りがあって美しい味があって初めておいしいと言えるのだと。間違いなくこのお店の料理は家族の食事会としておいしい料理を提供してくれた。家族の会話が弾んだ。ぼくにはそれで十分だった。
まっいっか!と建築を考えてみよう。少し見え方が変わるはずだ。

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