半睡日記

×月×日

ひさしぶりにかなりいいのが書けた、と思った文章をあとで読み返すと全然そんなことはなくてびっくりする。私はいったい今までこの文章に何を読んで、あるいは書いていたのだろう。かなりいいのが書けた、と思ったときには具体的かつ曖昧な手本のようなものが事前に想定されていて、そこに肉薄したという感触があったのだと思うが、肉薄にはいろいろあっていい文章になることを捨ててするタイプの肉薄というものもあるのでは、と思ったり思わなかったり。ともかく、いい文章かどうかを書いた本人がせっかちに決めすぎるのは危険ではあるが、いいのが書けたな、という感触を得ずに書いたものはそのままでは書き手の盾にはならないどころか、ちょっと押しもどされたら逆に自分の首をはねる凶器にさえなってしまうのが厄介なところだ。

×月×日

ポケットWiFiが急に繋がらなくなったり、玄関の鍵が途中でつっかえてささらなくなったりと身のまわりの小さなトラブルが続く。こういうくだらない些細な問題でいちいち動揺するのは本当に馬鹿々々しいが、この世という絵の書き込みの些細さに依存することで自分はどうにか生きているようなものだからしかたないかもしれない。鍵は鍵穴用の潤滑剤というのをネットで買って一瞬吹きかけたら嘘のようにささるようになった。WiFiの電波状況は回復しないが、家の中で一箇所だけ電波が安定する場所を見つけたのでそこにルーターを置いてしのいでいる。掃き出し窓の欄間の枠に立てかけているので、電波の安定と引き換えにルーターは物理的に物凄く不安定。

×月×日

最近、ホラーというジャンルのことがやっとわかったような気がする。ホラーとはようするにハロウィンみたいなもので、外国の習慣を輸入して日本でやるときの感じ、が日本語でホラーを書くときは必要なのではないか。ハロウィンみたいな欧米由来に限らず、アフリカでもアジアでも架空でもなんでもいいけど、日本に元々ないものを持ち込むのが怪談と区別して言うときのホラーだという考え。たぶん土着ホラーでさえそうなんじゃないか。たとえばいかにもな日本の田舎の因習、みたいなのを描くときにも非土着的、異文化的な要素を加えるとか、そこに本来あるはずがないものを持ってきて据える、という操作が、少なくとも日本語でホラーをやるときは必要なんじゃないかと思う。怪談の場合はそこ(日本語の世界)にもとからあるものへの「そうじゃない、別の視点」の提示なんだと思う。微妙な話ではあるけど、たとえば深夜百太郎はいっけん怪談のようだけどホラーである。というのがここでの私のホラー観で、かつてホラーを漠然と「怪談じゃないもの」と見ていたところから深夜百太郎をひとつの基準として見直すことで、ホラーがだいぶ体感でわかる感じになった気がする。

×月×日

たとえばわたしがnoteに書いたものでいうと「舞茸」とか「一日中家にいる」とか「左腕が上がらない」とか「シラサギたち」あたりは、どれもホラーと呼んでもさしつかえないのではないか。書いているときはそういう意識がなかった(そもそも自分にホラーらしいホラーが書けると思っていなかったし、とはいえこれらを怪談だとも思っていなかった)けれど、今体感しているホラーというジャンルの感じ、にはこれらはじゅうぶん当てはまるように思う。ホラーだったのか、なんだホラー書けるんじゃん自分、という気持ち。これからしばらくこの感じを忘れないように多めにホラー(映画、漫画、小説)に触れていきたいところだ。

×月×日

唐突に立ち退き問題が持ち上がった。四半世紀前から住んでいるアパート、このところ大家が変わったり管理会社が変わったりと気になる動きはあったものの、数年前に空き部屋の大掛かりなリフォームが入ったこともあってまだまだ大丈夫だと高をくくっていた。老朽化により建て壊しを検討しています、という紙がポストに入っていたのだ。ショックで頭がぼんやりする。考えてみたら、リフォームされた部屋はその後もずっと空き部屋のままだったし、真上の部屋なんて(リフォーム前から)十年以上空き部屋で、よくこれまで持ったほうかもしれない。まだ何も話は聞いていないが、半年後くらいには出ることになるのだろうか。紙には金も出すし引っ越し先も探す、ということが書いてあったが、現状わたしが審査を通る物件がそもそもあるのかが疑問だ。なければ出ていけないので絶対に見つけてくるだろうから、自力で引っ越すよりはいろいろと条件はいいのだと思う(敷金も全額戻ってくるだろうし)が、それでも呆然としてしまうし、食欲が出ない。

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