【古代メキシコ×STEAM教育】古代日本と古代メキシコに見る「交易」
前回の記事では、ヒスイについて触れました。
古代中南米と古代日本の交易について調べてみました。
王の威信財だった黒曜石
メキシコ高原にパチューカという地域があります。現在はサッカーチームでも有名ですが、ここは黒曜石の一大産地でした。
産地であるパチューカは、マヤから千キロも離れた場所にあります。しかし同地の黒曜石がさまざまな地域から発見されており、交易されていたことが分かっています。
マヤでも黒曜石が採掘されたのにも関わらず、王たちが遠く離れた場所から取り寄せたのはなぜでしょう。
それは、パチューカ産の黒曜石の特長にありました。
薄くて切れ味が良いのはもちろん、透明度が高く光に当てると美しい緑色に見えます。
先の記事(URL:https://ko-edo.com/archives/3432)でも触れましたが、緑色は、古代メキシコの王や王族にとって特別な色でした。世界の中心、水や植物、命を表す聖なる色だと考えられていたのです。
そのためパチューカ産の黒曜石は、マヤの王の権威を表すために用いられたのです。
マヤでは黒曜石がさまざまな用途に用いられました。
道具の一部として
武器
儀式石器・仮面の両目部分
日本での黒曜石
黒曜石は、火山活動によって地上に出てきたマグマの一部が急速に冷え固まってできた火山岩で、天然のガラスです。
割るだけで簡単に鋭い面を作り出せることから、日本でも黒曜石が旧石器時代から縄文時代に使われていました。石器にはない鋭さがあり、生活に欠かせない道具だったのです。旧石器時代にはナイフ形石器や槍の先端などに、縄文時代には矢じりのほか、動物の皮をなめすためにも使われました。
日本での有名な産地は次のようになっています。
北海道の置戸(おけと)、白滝
長野県の和田峠から霧ヶ峰、八ヶ岳にかけての地域
佐賀県の腰岳(こしだけ)
大分県の姫島 など
日本は火山国のため、黒曜石原産地遺跡は各地にありますが、人気のある黒曜石は限られていました。長野県・和田峠(鷹山遺跡)の黒曜石が、三内丸山遺跡(青森県)や関東の集落跡でも発掘されています。そのほかにも伊豆諸島・神津島の黒曜石が、島外に運び出されたことが分かっています。このことは古代の人々が黒曜石を求め、交易していたことを示しています。
縄文時代の人々が必要とした石がほかにあり、黒曜石はただその石と同じルートをたどっていたことをご存知ですか。
その石は古代メキシコと同じ、ヒスイだったのです。
日本でのヒスイ
日本国内で産出する岩石の中で、硬度が強く、美しいヒスイは縄文時代に重宝され、交易品でした。縄文時代の遺跡から見つかるヒスイの原産地は、新潟県の糸魚川周辺と推定されるため、出土されると交易ルートが分かります。
九州や北海道からも糸魚川のヒスイが見つかっていますが、三内丸山遺跡では加工もされ、数々の出土品が見つかっています。新潟県の糸魚川と、青森県の三内丸山遺跡の位置を考えると、海路でヒスイが運ばれたのではないかと考えられています。そして、黒曜石も同じルートで運ばれたと言われています。
縄文時代で海路…と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、先に触れた伊豆諸島・神津島の黒曜石は、縄文時代早期には青森県に運ばれていたことが分かっています。
三内丸山遺跡は、約1500年間も存続した大集落と考えられています。集落が巨大になり人口が増えると、交易が盛んになります。
三内丸山遺跡では、このようなものが交易されていました。
〇聖なるものとして〇
ヒスイ
板状土偶
〇技術を必要とするものとして〇
黒曜石
琥珀
アスファルト
石斧
毛皮など
〇食料として〇
栗
魚
獣肉
粟
ヒエ など
交易するのに、商人のような存在の人がいたのではないかという説もあります。
マヤの交易
古代メキシコでは、どのような交易がされていたのでしょう。
マヤで交易に利用されたのが、サク・ビフ(サクベ)と呼ばれる舗装堤道でした。石や土を盛った後、小石や漆喰で舗装してありました。その見た目から名付けられたのか、「サク・ビフ(サクベ)」はユカタン語で「白い道」を意味しています。
雨の影響を受けないように盛り上げて作られ、当初は都市の中央部と貴族の館、農耕地を結んでいたとされますが、古典期後期(紀元前250〜紀元400年)のエル・ミラドール遺跡では、高さ4m、幅50mのものが作られました。
このサク・ビフ(サクベ)は、都市間を結びました。
エル・ミラドール⇔ナクベ間 13㎞
エル・ミラドール⇔エル・ティンタル間 25㎞
エル・ミラドール⇔カラクムル間 38㎞
カラクムル⇔エル・ティンタル間 30km など
チチェン・イツァでは、メソアメリカで最も多い90以上のサク・ビフ(サクベ)が見つかっています。またサク・ビフ(サクベ)の端には、立派な門が設けられていることもありました。大規模な土木工事が行われていたことが分かります。
古代メソアメリカでは馬、牛などの大型の荷役動物がいませんでした。そのため、沿岸部や河川沿いではいかだ、内陸部での運搬はカヌーが使われていたものの、ほとんどの地域では徒歩で交易が行われていたそうです。
マヤの地域は、沿岸部、内陸部、高地、低地とさまざまな自然環境があり、地域によって獲れる作物、動植物が異なります。そのため、交易は盛んに行われたと考えられています。
王や王族、貴族の間では、次のような品々が交換されました。
〇マヤ低地から〇
土器
コンゴウインコ、オウム、ハチドリの鳥の羽根
ジャガーの毛皮
綿製品
ベリーズ コルハ産のチャート
貝
儀式に用いられたサメの歯、アカエイの尾骨
ー古典期後期からー
土器の香炉
奴隷 など
〇マヤ高地から〇
重宝されたケツァルの羽根
ヒスイ
雲母、縞瑠璃などの鉱物 など
古典期前期のマヤ低地の王たちは、メキシコ中央高原のテオティワカンの王・王族たちと交流していたことが、最近の研究で明らかになったそうです。
〇テオティワカンから
タルー・タブレロ様式建築
パチューカ産黒曜石
テオティワカン様式の衣装を身に着けた人物
テオティワカン様式の三足土器
土器から見えてくる日本の交易
先ほど縄文時代の交易について触れましたが、土器を見るとどのような土地と関わりがあったのか分かりやすいのをご存知ですか。
古代中南米の遺物からも、土器の形や模様を見れば交流のあった地域が推定されますが、日本も同じです。それほどまでに、土器はその地域の特長を持ったものなのです。
弥生時代、日本では朝鮮半島の伽耶産の鉄や青銅を輸入、クスノキやコウヤマキを輸出していたと言われています。国内では、纏向(まきむく)遺跡(3世紀初頭~4世紀前半)など、人の往来があったと考えられる地域では、さまざまな地域のから持ち込まれた土器(搬入土器)や、各地の影響を受け地元の土で作られた土器(外来系土器)が見つかっています。
テノチティトランの市場
アステカ帝国の都、テノチティトランはテスココ湖に浮かぶ大変美しい宮殿や神殿があったと伝わっています。
都市は4つの地域に分けられていましたが、これはアステカ部族の神ウイツィロポチトリが「世界の四方に向けて分割せよ。この都の目標は発展すること。地上のあらゆる所から人が集まれるようにすることである」と命じたことに由来するそうです。
テノチティトランの中心地は、トラテロルコでした。ここでは、多くの広場でたえず市が開かれていたという記録が残っています。
毎日6万人もの人々が、さまざまなものを売買していました。
食料
金銀、鉛、真鍮といった金属
石や亀甲、貝、羽毛で作った装飾品
れんがなどの建築材料
あらゆる種類の鳥、兎、鹿、食用の犬
薬草
そのほかに
床屋
屋台
荷を運ぶ人もおり、現代のショッピングセンターを連想させます。
さいごに
大きな集落や都市に人が集まり、交易が活発になるのは、国や時代を越えて共通ですね。現代はインターネットの発展で、世界中から物を買える大変便利な時代になりました。伝統的な工芸品や特産物が残っているものの、その地域特有の物が生まれる機会が少なくなってきているようにも感じています。
地域独自の文化様式を交易という形で発信したり、それを良いと思い取り入れたりする姿は、現代にも通じるように思えてなりません。
古代の人々の生活を垣間見られる展示会へ、足を運んでみてはいかがでしょうか。
2023年8月7日(月)には、古代メキシコ展「子どもの日」が設けられています。
子どもの感性に、ドキッとすることはありませんか。
お子さんの視点から見た展示物に、大人も新たな気付きがあるかもしれません。
〇●ーー特別展「古代メキシコ ―マヤ、アステカ、テオティワカン」
展示会場・期間
東京国立博物館 平成館 2023年6月16日(金)~9月3日(日)
九州国立博物館(福岡会場)2023年10月3日(火)~12月10日(日)
国立国際美術館(大阪会場)2024年2月6日(火)~5月6日(月・休)
〇●ーーBIZEN中南米美術館
展覧会名:「冒険!マヤ文明」展 エピソード2
期 間:2023年3月28日~10月9日(月・休)
(koedo事業部)
【参考】
BIZEN中南米美術館 古代中南米ww講座 第2回「メキシコ中央高原の興亡」
アステカ文明の謎解き 高山智博 講談社現代新書
マヤ文明を知る辞典 青山和夫 東京堂出版
縄文時代の商人たち 小山修三+岡田康博 洋泉社
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