1人酒場飯ーその20「鶏皮煮込みの夜」

『トキワ荘』と言う建物の名前を聞いたことがあるだろうか?きっと知らない人もいるだろうが、ふと耳にした人が多いはずだ。

 僕も生まれは平成ではあるがその名前を聞くと、ああ、そうか。と思うほどには知っている。 


 建物を知らない人でもそこに住んでいた住人ならば誰もが聞いたことがあるはずだ。手塚治虫、藤子不二雄、石ノ森章太郎などなど。彼ら若かりし頃の漫画界の巨星達が過ごした小さなアパートが「トキワ荘」と言うわけだ。

 そんな漫画界の聖地ともいえる場所だが、現在は取り壊れており印刷会社が建っている。これも時代の流れか。 
 さて、このトキワ荘があったエリアは聖地とされ、様々な関連施設や記念碑が多くあり、今でも多くの漫画ファンが惜し気なく通っている。

 このエリアと言うのが、池袋から西武池袋線に乗って1駅の場所にある椎名町だ。池袋からわずか1駅であるのに何処となく穏やかなエリアであるが、近くを首都高が通っており、都会と住宅街の丁度狭間と言ったところである。 


 一時期、僕は椎名町の近くに腰を下ろしていた。大学を卒業してから数ヶ月ではあるが、隣の駅の東長崎をホームグランドとしていたのだ。


 その時はよく椎名町の銭湯に通っていた。夜帰りが遅いため、東長崎の銭湯は閉まっていることが多かった。それ故に深夜1時半まで開いている椎名町の銭湯に通った。東長崎にいた頃は反省ばかりの毎日だったが、銭湯での時間は何よりも心が落ち着く時間であった。

 だが、その前に胃袋が空だとどうも心が定まらなかった。どこか、夜遅くまで開いている店は無いのか……。そう思っていたある日の事、帰り際に一軒の居酒屋を見つけた。


 深夜0時になりそうな時に、中からは大きな談笑が聞こえてきた。思わず立ち止まり、住宅地と商店街の中間にあるその店を見つめていた。正統派の居酒屋のようだ。入り口にはビールケースが積まれ、白い暖簾が風に揺れていた。店先にも存在感がある灯籠のような看板が僕を引きつけて止まなかった。


 何時までやっているのか、気になって仕方がない。入ろうかと思ったが、また後日にゆっくりと向かい合うと決め、その日は引き上げた。食べる店を探していたが、ゆっくりと向かい合いたいと言う気持ちが先行した以上、その日はチェーン店のラーメン屋でお茶を濁した。

 そんな夜の出来事が楽しかった。僕を引きつけた店の名は「北の誉」。僕が今でも好きな店である。


 ちなみに「きたのほまれ」と屋号は読むのだが、この名前は北海道の日本酒の名前である。その名の通り、北の誉がメインに出されいている日本酒である。居酒屋らしいと言えばらしいのではないのだろうか。


 さて、それを皮切りに何度も訪れているが、店の中はいつも地元の方で賑わっている。このところどころから響いてくる声の重なり方が正統派な居酒屋を形作っている。カウンターに見える厨房の上にずらりと並んだ木札のメニュー、テーブル席も味のある木の艶が心を落ち着かせる。

 何と言ってもこの店に来ると一人でもとても心穏やかに居られる。不思議なものだ。でも、それがこの店の魅力なのだから。


 僕が大抵座ったのはカウンターよりも店内を見渡せるテーブル席が多かった。通りに面した窓がある角の席。ちょうどそこには日替わりのメニューが書かれた白いボードがあり、魚も洋風も揃っている。

 ちなみにボード自体は店内に三箇所、外に1つあるのでどこでも見やすい。僕は真後ろを向いてメニューを見る流れが一連の動きに入っていたが。


 そんなこんなで日替わりの刺身から行くかと言われれば違う。

 最初に行くのは、煮込みだ。大抵居酒屋の煮込みは皿で出されるが、その煮込みとは一線を引く特徴がある。何を隠そう、煮込みが一人前の鉄の鍋で出てくるのだ。そのいきなりの迫力に押されてしまう。

 確かに煮込みを鉄鍋で出すのは美味しく食せる温度を保てるから有効であり、そこにこの店の細かい目配りが見えてくる。

 実際に食すると鳥皮を使った味噌仕立ての煮込みのオーソドックスなタイプであるが、穏やかな落ち着きのある味の内側に秘めた力強さは凄みを感じる。里芋と根菜類も鳥の旨味をしっかりと蓄え、煮込みの世界に奥行きを出してくれている。この煮込みが胃袋に沁みると、幸福に包まれる。椎名町の人達がここに集うのも分かる。
 

 煮込みを食べると、僕の組み立てだとその日の気分で魚の刺身か、地鳥の叩きかを次に持ってくる。魚の産地は福井と愛媛の網元から仕入れているため、間違いなしに美味く、地鳥の叩きも鳥肉のしっかりとした肉質と共に鳥の味がくっと広がってくるのがたまらない。
 

 すっかりと酒場の中に溶け込んでしまうほど、料理に虜にされ、人柄に魅了され、人々の声を聞き入ってしまう。

 はっと気づけば一人飯という事も忘れ、時間に取り残されてしまう喜びが胸の中にはあった。そろそろ〆ようかと思いメニューを覗く。個人的な決まりのコースがあるのだ。僕の中で最後はおにぎりと鳥のスープと相場を決めている。

 「ばくだん」とメニューに載っている通り、 どんと現れるおにぎりの大きさは茶碗2つを重ねたぐらいに大きい。これがシメというのもどうかと思うが、このおにぎりと鳥の旨味が詰まったスープで飯を待つ胃袋を満足させるのがたまらない。
 

 池袋から僅か離れた住宅地に佇む北の灯りは今日も地元の人々を繋いでいる。始めて出会った時の喜びを噛み締めながら、僕はもの思いに耽る。ああ、懐かしいなと。

酒造北の誉
住所 東京都豊島区長崎2-3-21
電話番号 03-3974-9593
定休日 水曜
営業時間 午後6時〜午前2時


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