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【ジャーナル】こうちアントレプレナーナイト 連続セミナー #7 ~今夜はジビエを食べようよ、が合言葉になる日まで~


「こうちアントレプレナーナイト」は、高知県内で活躍する先輩起業家を招き、起業までの道のりや苦労話、起業するにあたっての心得など、実体験をもとに紹介してもらう、対話形式のセミナーです。
また、参加者が考えているアイデアがある場合は発表し、ゲストと参加者が一緒に、そのアイデアを磨き上げる参加型のプログラムとしても機能させていきます。

第7回目の講師は、西村直子さん(Nook's Kitchen)。
『今夜はジビエを食べて帰ろうよ、が合言葉になる日まで』と題して、ジビエを軸にしたビジネスに取り組んできたこれまでのことと、これからの活動についてお話しいただきました。

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西村直子さん(Nook's Kitchen

高知県高知市出身。20歳からアジア、アフリカ、ヨーロッパを放浪。
その後、海外移住を目的に26歳で調理師免許を取得。ニュージーランドへ渡り、レストラン勤務や料理教室の講師をしながら永住権を取得し、12年間生活した。
2009年に帰国。故郷の高知へ戻ると、外国では高級食材のシカが日本では害獣扱いであることに驚き、シカの価値向上を目指した商品開発やイベント企画を行った後、ジビエ料理専門店を3年間限定でオープン。
2018年、ジビエの新拠点を作るため、祖父母が暮らした香美市香北町の古民家を改修。
ジビエのプロを養成するため『ジビエビジネスアカデミー』を主宰するほか、ジビエ弁当販売やセミナー講師等を行いながら、田舎暮らしを楽しんでいる。


憧れの外国へ

子どもの頃から外国に憧れていた西村さん。10代の頃は、何のために生きているのか。なぜ勉強しないといけないのか、働かないといけないのか、など迷いながら生きていた、と言います。
18歳で上京した後、満員電車に揺られて会社に行くと、自分がロボットのように思えて「こんなことのために生きているんじゃない。でも何をしたら良いか分からない」と悩む日々が続きました。
そんなとき、知り合った人から外国に安く行くことができる、バックパッカーという旅行法を教えてもらいました。外国は、高いお金を払ってツアーで行くものだ、という概念が覆りました。

20歳のときに、勤めていた旅行会社の夏休みを利用してバンコクへ。英語は全く喋れませんでしたが、イラストで言葉の意味を説明してもらったり、ボディーランゲージをしたりして、1週間の旅行をしました。
そのときに「自分が生かされていること」を実感したと話します。
こんなに違う世界がある、そう思うと、日本に帰ってきてからは、もっと世界を見たいと思うようになり、会社勤めをしながらアルバイトを掛け持ちし100万円ほど貯めた後、アパートを引き払って放浪の旅に出ました。
アフリカ、ヨーロッパ、アジアなど色んな国を周り、その間に何度か帰国し、住み込みで高級リゾートホテルのレストランのウェイトレスをしてお金を貯めて、また外国へ、の繰り返し。ある程度、お金が貯まったら外国に行く、という生活を25歳くらいまで続けました。


縁があるところにはスッと開ける

旅行を繰り返す中で、「気に入った場所で地域の一員として暮らしてみたい」という気持ちが生まれました。その当時は南アフリカにいましたが、雇ってくれるところはなく、観光ビザで働くと不法滞在になってしまうため、一度日本に帰ることに。
どうやったら海外に暮らせるのかを考えながら、色々な職種を検討したとき、調理師免許なら世界中にある日本食レストランで働けるはずだ、と思い、高知のホテルの厨房で2年ほど働き、調理師免許を取得。

その後、10万円と自転車を担いで、ワーキングホリデーでニュージーランドに行きました。元々、住みたいと思っていたのは、アラスカかケープタウンだったので、ニュージーランドに行きたかったわけではありませんでした。
ですが、アラスカで知り合った日本人から、ニュージーランドはアラスカに似ているからきっと好きになる、どこかの国で働く経験を積んでから自分の住みたい国へ行った方が良い、と言われ選んだそうです。
10万円がなくなったら日本に帰ろう、と思っていましたが、2日目に日本食レストランで調理師の仕事が見つかり、1年間働くことに。
ワーキングホリデービザが終わったあとは、2年間のワークビザを取得。ワークビザが終わったら永住権を申請。永住権取得後はニュージーランド人経営のレストランなどで働くようになりました。
この経験を経て、「何かしたい」と思っても開けなかったのに、ご縁があるところにはスッと開ける、ということを感じました。

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これ以上、失うものはない

ニュージーランドで12年間生活し、その次はニュージーランドベースの南極基地で調理師として働きたい、と思うようになります。募集はありましたが、とても人気の高い仕事ということもあり、結果は不採用。
代わりに、オーストラリア基地を人から勧められ、タスマニアで仕事を始めました。そのとき、足を切断しなければならないほどの大怪我をし、このことがきっかけで2009年に帰国。
実はタスマニア移住前に、ニュージーランドで健康診断を受けて、癌の疑いがあると言われた西村さん。その後タスマニアで精密検査を受けたところ、「ガンの疑いはない」と言われ、そのまま働いていたそうです。
その後帰国し、足を治療するために入院していた病院で、念のため検査を受けると癌が発覚。
足の怪我が無かったら、そのままタスマニアで働き続け、癌が進行した状態で気づき、おそらく死んでいただろう、と当時を振り返りました。幸い、癌が見つかったときは治療も抗がん剤も必要がない状態で、手術して完治しました。

西村さんはよく周りから「どうしてそんなに思い切ったことが出来るの?」と聞かれるそうです。
それは、自分は死んでいたかもしれない、という思い、そして「生かされているだけでラッキーだし、失うものはこれ以上ない。そんな気持ちで取り組んでいるから」だと話しました。


シカドックの開発

手術後は、日本での2年間の経過観察を主治医から勧められ、香北の祖父母宅で療養をしていました。そのとき、たまたま目に入ったのが、べふ峡温泉のシカ肉商品の企画開発をする人の募集チラシ。2年限定なら、と働くことにしました。
2009年当時、ニュージーランドでは高級食材だったシカ肉。外国ではシカの養殖は一大産業であり、シカは捨てるところがない儲かるビジネスです。
ですが、日本ではシカは害獣と言われる存在。
退院後に物部のシカを食べたとき、その美味しさに驚いた西村さんは「日本のシカは明らかにおいしいのになぜ売れないのか」を考えるようになりました。この頃、ジビエと言われる肉類は扱いが良くないのが普通でした。

こうした現状を踏まえ、女性が食べたくなるようなものを作りたい、と思い『シカドック』を開発。なぜおいしいのか、なぜ身体に良いのか、を間接的に伝えたり、食材にこだわったり、女性らしい手書きの文字を使ったり、と工夫を凝らしました。これが功を奏し、「できるわけない」と言われていましたが、土佐の食1グランプリで優勝し、沢山のメディアに取り上げられました。
このことが縁となり、『ゆとりすとパークおおとよ』で働くことに。このとき西村さんは、外国に行くか迷っていましたが、四国や全国にシカの普及が広げられる可能性があることを感じ、働くことにしました。


ここでしか食べられないもの

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