没後50年 鏑木清方展:5 /東京国立近代美術館
(承前)
清方の「美人」
「生活をえがく」の章は、本展の過半を占めている。かたや「美人をえがく」という名の章は、本展には存在しない。
清方の絵は、カテゴリー分けすれば、ほとんどが「美人画」とはなろう。じっさい、需要の多くが「美人画らしい美人画」であったことを、清方本人が何度か綴っている。そしてそこにはかならず、忸怩たる思いが滲んでいるのだ。
美人画といえば、周囲をとりまく一切から隔絶し、理想化が推し進められた「美の標本」「ブロマイド」的なものが真っ先に浮かぶ。そのような作が世にはあふれ、美人画として市民権を得ている。
かたや清方の美人は、季節や時間、生活、あるいは物語といった背景を感じさせる、血のかよった一介の市井の人の姿である。
「女も風情の一つであるにすぎない」のくだりからもわかるように、美しい人の美しい姿を表すことは、清方が最終的に目指すところではなかったようだ。
とすれば、清方の美人とは「風情を、人間の姿を借りて具現化したもの」ともいえそうだ。誤解を承知でいえば――着物をまとった「妖精」のような存在……
そういった思いは、《築地明石町》三部作を観ているときに、より強固なものとなった。(つづく)
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