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マーク・マンダースの「ふしん」 マーク・マンダースの不在 /東京都現代美術館

 2メートルはゆうにある人の顔が4つ、一所に集められている。
 粘土はまだ湿り気を帯びているようにも見え、表面の箆(へら)目や亀裂、むき出しにされた断面が生々しい。仕上げまで至らず、つくりかけのまま破棄されたばかりとおぼしき状態だ。
 「普請」中のどでかい彫像が放置される、明らかに「不審」な光景。この場所を去って行った作者は、いったいどういう料簡かという「不信」――鑑賞者の胸に去来するのは三つの「ふしん」に対する割り切れなさであり、この像をつくり、みずから壊して立ち去っていった作者の得体の知れぬ不気味さだ。主(あるじ)の居ぬ間に他人のプライベートな空間に紛れこんでしまったような、そこで見てはいけないものを見てしまったかのような居心地の悪さに、鑑賞者はさいなまれる。森のなかをさまよっていたら、いつのまにか私有地に立ち入っていたと気づいたときの、血の気の引くようなまずさが会場でフラッシュバックするのである。
 こうして目の前に置かれたもの、その意味について、鑑賞者は考えずにはおれない。残された物的証拠、作者の気配をもとに、鑑賞者は名探偵にでもなったような心持ちで隠されたストーリーを探ろうとするのである。
 そういった鑑賞者の心理や行動を、作者のマーク・マンダースはまさに目論んでいる。「つくりかけ」というのは装われた「体(てい)」。展示される作品は完成していて当たり前だという固定観念に反するものがここには提示され、その答えは最後まで明示されない。未完成のようでいてじつはきわめて完結性の高い空間が、このインスタレーションといえる。
 よく観察すると、胸像の左目に黄色の角材が突き刺さっていたり、1人掛けソファーの背を横に割り、そのなかに粘土が詰められていたりと、どうも、仮に制作途中であったとしても、工程上はなんら必然性のないであろう造作もなされているのが見受けられる。
 「死」や「消滅」、「時間」を想起させるモチーフも頻出する。冒頭から触れてきた、完形をとどめず中断された不完全な人体がそうであるし、写実的につくられた動物の死骸、古色のついた古材や錆びた金属……複雑に絡まったデペイズマンの糸をほぐしていこうとする、けれどもうまくほどけない。もやもやとした感触は、ジョセフ・コーネルの箱を見るときのそれによく似ている気がした。
 余談だが、古美術に親しむ者としては救い(もしくは誤読)の余地もあった。宗教美術には、一度は完成されたものの、長い時間を経るうちに劣化損傷、あるいは意図的な破壊に見舞われごく一部のみが「残欠」として伝世するケースがある。マンダースの彫像は、そのたたずまいに通ずるものがあるのだ。大樹の根に侵食されるアンコール・ワットの仏頭や、アルカイダに破壊されたバーミヤンの大仏のようなものも、同時に思い起こされる。
 「つくりかけ」とはそもそも真逆の概念ではあるのだが、人間の頭ひとつ転がっていても、日頃古美術に馴染みがあるわたしなどにとっては、バラバラ殺人の生首よりも先に仏頭に見えてしまうのも事実。そうなると、作者の意図したであろう不気味さは、かなり軽減されてしまう。むしろそこに一種の趣や愛おしさすら感じた。もっとも、マンダースの他の作品には螺髪のついた彫像もあり、東洋の仏像から影響を受けている面がありそうだ。あながち間違いではないのかもしれないが、実際のところどうだろう。



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