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木津川の古寺巡礼:2 当尾・石仏めぐり

承前

 岩船寺門前の集落から、山へと分け入っていく。

 ここ当尾(とうの)の里をかつて訪れた際、浄瑠璃寺から歩いて岩船寺まで登り、帰りは一部ルートを変えつつ引き返して、大小の石仏をあらかた拝見した。そのときの往路と同じ道を、今回は下っていく。
 一本道で迷うようなことはないし、長くもキツくもない道。「登山」という表現はおろか、「ハイキング」すら怪しい……どなたさまにも、散策に好適な道である。
 唯一、息を切らして登った記憶のある急勾配の石段すら、きょうは下りだ。軽快に歩みを進めていく。

第一石仏発見!
……どこにいるでしょう?
正面から《不動明王立像》(鎌倉時代・弘安10年〈1287〉)。「一願不動」の異名をとる。一つだけ、なにを願ったかは秘密
お不動さんの岩よりもさらに大きな岩のまわりを通過。落ちてこないか心配だった
このあたりの巨石には、石仏がワンセット。彫刻がない巨石がめずらしいくらい
当尾の石仏を代表する、「ワライ仏」こと《阿弥陀三尊摩崖仏》(鎌倉時代・永仁7年〈1299〉)。陽を受けて、穏やかな笑み
さらに山中を下る
「カラスの壺石仏」と呼ばれる《阿弥陀如来坐像》《地蔵菩薩立像》(南北朝時代・康永2年〈1342〉)。古い写真では像の手前は田んぼになっており、現在もぬかるんでいる
街道の通行人を見守ってきた
岩をそのまま活かし、左の面にも彫刻が

  「カラスの壺」の阿弥陀さんのまなざしは、小川のせせらぎへと注がれている。その流れに沿って傾斜を下っていくと、ようやく人家が。ここまで来れば、浄瑠璃寺は目と鼻の先。

 道路の脇、藪の中に石仏の姿を確認。
 その名も「やぶの中三尊」という、鎌倉時代・弘長2年(1263)銘の地蔵菩薩、十一面観音、阿弥陀如来の石仏である。

 こちらもやはり、岩のかたちをそのまま活用して、みほとけの姿を刻んでいる。彫刻をするために岩の表面を真っ平らに整えたりといったことはなく、そのまんま。
 そういった点に加えて、如来が中尊でなく端っこで位置が変だとか、そもそもこの組み合わせにしても……いろんな意味で、たいへんおおらかなお像である。
 それでいて、彫技は一流。当尾の石仏たちの、興味深い特徴だ。

 この世の浄土・浄瑠璃寺については次回に譲るとして……帰りのバスが来るまでの時間を利用して、浄瑠璃寺門前から車道を5分ほど歩き、またもや石仏を拝観に。

すごい場所にある「ながおのあみだ」こと《阿弥陀如来坐像》(鎌倉時代・徳治2年〈1307〉)
笠石で雨風をしのぎつつ、車道を見守る
《三体石仏》(室町時代)。車道より撮影

 石仏のなかでも、大きな自然石に直接刻むものを「磨崖仏」と呼んでいる。
 《三体石仏》は元・磨崖仏。道路拡張により彫刻部分だけが切り取られて現在の姿になっているというが、これは例外的。
 磨崖仏というのは、基本的にはその場を離れることがない。建築物のような解体や移築はむずかしいのだ。
 つまり磨崖仏は、現地に行かないと観られない。その「現地」とは、お像が生まれたときから変わらずに、ずっとありつづける場所であり、信仰のよりどころとして選ばれた、確かな意味のある場所でもある。

 白洲正子さんは、次のように書いている。近江の石塔寺に関して述べた一節だが、石造美術全般にいえることだろう。

なんといっても石塔は、自然の中に置くべきで、博物館などで見たのでは半分の値打もない

白洲正子「近江路」『近江山河抄』

 たしかに、博物館の展示室でみかける板碑やお地蔵さんはカラッカラに乾いて、もはや生彩を失っている。そして同時に、土地の文脈から切り離されて不憫に思える。
 それらとは対照的な、当尾の石仏たち。訪れる価値は、きわめて高いといえよう。(つづく




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