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「天」とは?|諸子百家の思想比較

はじめに

先々週の記事では、中国の春秋戦国時代(紀元前770-221年)に、各地に群雄割拠していた領主(諸侯)の国家戦略のニーズに呼応する形で出現した、「諸子百家」のうち、孔子と墨子の統治システムに対する思考の違いを取り上げた。

今回は、この記事を横展開し、諸子百家が「天」というものをどのように捉え、どのような視点で自らの思想に組み込んでいったのかをご紹介するものである。

日本だと、「中華に於ける天子」というものを語る時、「人知を超える存在として天が仮定されており、その天の命を受けて、地上世界に於ける王権が保証された存在が天子・皇帝である...」といった極めて画一的な説明がなされることが多い。

しかし、中華に於ける「天」の定義は、諸子百家に於いては多種多様であり、かつ、時代によっても異なるのが現実である。今回は、この「天」というものを代表的な諸子百家の思想家達がどのように捉えていたのかを、ざっくり取り上げたい。

孔子と「天」

始めに、徳治主義に重きを置き、「孝悌」の道を推し進めることで天下を安定させようとした孔子が「天」というものを、どのように捉えていたのか考えてみる。

孔子が、宋の国を通過しようとした時、恒魋という名の宋の重臣が孔子を暗殺しようと試みた。しかし、孔子は運よく難を逃れることができた。その際、以下のように述べている。

子曰、天生德於予。恒魋其如予何。                 《現代語訳》老先生の教え。天はこの私に世を徳化する資格をお与えになったのだ。恒魋ごときが、いったいこの私をどうすることができるであろうか。

上記の言葉から、孔子が「天」というものに対し、非常に強い信頼と確信を抱いていた事を読み取ることができる。

孔子は、「人間中心」を自らの思想の軸とし、日常性を超えた存在、いわば超自然的な存在はひとまず棚に上げておき、対象外としていた。そして、あくまでも現実社会での問題を切り取って、それを追求しようとした。

但し、彼の言葉からは、現実や人間の存在の根底には、それを支える「全体社会」なるものが存在し、自然界と、孔子の思想の枠組みの外に位置する超自然は併せて、この人間社会を根底で支えるモノであると思考していたと考えられる。

孔子は、"了解不可能ではあるが、確実に存在するもの"として「天」を捉えていたと考えられる。

顔淵死。子曰、噫、天喪予、天喪予。
《現代語訳》顔淵が亡くなった時、老先生はこう嘆かれた。ああ、天は私を殺した、天は私を殺した、と。

孔子は、顔淵という自らの愛弟子を亡くした時に、自己の思想を受け継ぐ者として期待していた人物に死を与えた「天」に対し、悲壮感溢れる気持ちを吐き出している。ここでの「天」は、人間の運命を握るものとして描かれているといえる。自分の道徳を支持する存在としての「天」への信頼が、動揺しているような印象さえ受ける。

しかし、彼の活動は概ね、「天」への信頼が基になっているため、道徳律の執行者たる「天」に対し、畏敬の念を持っていたと考えられる。

墨子と「天」

孔子が「天」というものを、究極的な存在として捉えて、①自らの説く「徳」に対しお墨付きを与えてくれる存在であり、②それと同時に運命を握っている存在であるとしたのに対し、諸子百家において孔子を祖とする儒家と対立し、一大勢力を誇った墨家の祖である墨子は「天」というものをどのように捉えていたのだろうか。

天下之百姓、皆上同於天子、而不上同於天、則天菑猶未去也。今若天飄風苦雨、溱溱而 至者、天之所以罰百姓之不上同於天者也。
《現代語訳》天下の人民すべてが天子の価値観に同調しても、さらに天の価値基準に対して同化しなければ、天が降される災害は、まだ消え去りはしない。今もなお、烈風や大雨がしきりに地上に襲ってくるのなどは、これぞ天が自己の価値基準に同化しない人民を罰しようとされている証拠である。

上記の事柄から、墨子の考える「天」には、宗教的傾向が強く、「天」というものに意思があると思考していた事を読み取ることができる。また、彼の提唱するヒエラルキー型の国家運営において、頂点に君臨する天子の独裁、或は暴走化を食い止めるために「天」というものを想定したと考えられる。つまり、「天」というものを、いわば「神」のような存在として捉えていたのだ。

”自分は「天」≒「神」の代行者として自らの理念を推し進める大義名分がある” と語ることで、墨子は自らの理論に正統性を与え補強する為に、「天」という概念を利用していた、と考えられる。

荘子と「天」

自由奔放な思考で知られており、孔子と並んで日本の学校教育にて取り上げられることの多い、「荘子」は「天」をどのように捉えていたのだろうか?

莊子曰、知道易、勿言難。知而不言、所以之天也。知而言之、所以之人也。古之人、天而不人。
《現代語訳》荘子は次のように言っている。「根源の道を知ることは易しいが、それを言葉で言わないことは難しい。道を知ってなお言葉で言わないでいれば、天の世界に入っていくことができるが、道を知ってそれを言葉で言うならば、人(人為)の世界に向かうことになる。そして、理想とすべき古代の人々は、天を生きたのであって人(人為)を生きたのではなかった。

上記の事柄から、荘子が「天」というものを、「人」〈作為〉との対立項として捉えていた事がわかる。「『天』の内容は各場所で異なるものの」、究極の真理として「天」は、確かに存在しているものとした。

しかし、彼の「天」の思想は、内面的な存在であり精神的な境地と密接に関連していたと考えられる。〈無為なあり方〉という「不言」が、即ち「天」に繋がるのである。

外部からの様々な圧力に対して、自由に対応できる、〈作為〉の加わっていない状態というのが、荘子の「天」というものに対する捉え方であったと考えられる。「天」というものを、自然現象のような存在ではなく、人を優越するものとして・模範とされるべき理念的意味を持った存在として荘子は「天」を定義付けしたのである。

荀子と「天」

最後に取り上げるのは、「性悪説」を唱えた荀子からの観点である。

治亂天邪。曰、日月星辰環歴、是禹・桀之所同也。禹以治、桀以亂、治亂非天也。
《現代語訳》日や月、星の運行、これは聖人禹の時代も、暴君桀時代も変わらない。それでいて禹の時代は治まり、桀の時代は乱れたのであり、治と乱は天とは何の関係もないのだ。

荀子は、前項で取り上げた荘子の「天」に対する捉え方を批判的に継承したといわれている。

上記における、「自然現象は人間の思惑や、世の中の動向は関係ない、不変の存在である」とした荀子の立場から考えられることは、荀子が「天」というものを自然現象、英語で言うところの〈nature〉として捉えていた事は明白であるといえる。

荀子は「天」という存在を客観的に処理すべき問題であるとし、人為的努力によって克服すべき存在であるとしたのである。

また、孔子や墨子が、「天」に意思があるとして、一種の人格神的な存在として捉えていた一面がある事を取り上げたが、荀子は自然的な事象と、人間の事柄の間には、何ら関係性のないものとして、それらの思想における「天」を全否定するものとなっている点も興味深いといえる。

まとめ

いかがだっただろうか?

「天」と一口に言っても、その概念の包含する意味合いの曖昧さ故に、それぞれの思想家が沢山の定義付けを行ってきた点は特筆すべきである。

春秋戦国時代に於いては、自分の思想を際立たせ、最終的にどこかの盟主のお抱えコンサルタントになることが諸子百家には求められた。

つまり、「天」という概念一つをとっても、自分の思想を補強する為に利用したり・あるいはその概念を否定して別の概念を提示してみたり・はたまた人々にバズりそうな定義付けをしてみたり...という諸子百家の思惑が恣意的に働いているのである。

近年巷では、中国思想が断片的に切り取られ、あたかもそれが金科玉条のように扱われている。しかし、その思想の裏側には、明らかな恣意性だったり・自己顕示欲が働いていたことも無視してはならないと思うのである。

「これが正しい!」とされていることをまずは疑い、思想を調べ、比較検討してみること。そして、自分なりの真理を見つけること。それこそが現代の私達に求められていることなのではないだろうか。

参考文献                              浅野裕一『墨子』講談社学術文庫,2006年               池田知久『荘子 (下) 全訳注』講談社学術文庫,2014年
加地伸行『論語 増補版 全訳注』講談社学術文庫,2009年
冨谷至[著]『韓非子 不信と打算の現実主義』中公新書,2006年

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