見出し画像

理想の統治体制とは?|孔子と墨子から考える統治システムについて

はじめに

先週、koboくんが漢字に関する記事をリリースしたのだが、読者諸君はもう読んだだろうか? 

この記事に触発されたので、今回は私も中国に関連するトピックを扱ってみようと思う。

今から約2800年前、中国に独自の理想、思想、主張を持った様々な思想家が現れた時代が存在した。その時代を春秋戦国時代と呼び、出現した学者達や、諸々の学派の事を「諸子百家」と呼ぶ。

その時代、(名目上の統治者である)中国古代の王朝である「周」の力が弱まり、封建的な制度が崩壊した。同時に力を持った各地の領主達、即ち「諸侯」の自立が促された。

分裂した各地の勢力は、生き残りを賭けて、覇権争いに明け暮れることとなったのである。

画像1

(キングダムの舞台も、春秋戦国時代)

上記のような状況において、どのように民を統治し、国を円滑に運営していくかという問題は、各国の諸侯達にとって非常にアクチュアルな課題であり、死活問題であった。

そのような時代のニーズを温床として、様々な思想家や学派は出現し、発展していった。つまり、諸侯達の頭を悩ませていた、「富国強兵」という、どのように国を豊かにし、強い軍事力を持つことができるかという命題に対し、「諸子百家」は様々な回答を提示したのである。国家運営・政策策定プランナー・経営コンサルタントとして彼らは活躍していたものと考えられる。

今回は、孔子の思想・墨子の思想という、2つの思想から、それぞれの理想とする「統治体制」を考えることで、〈強い国〉・〈より良い社会〉をどのように実現しようとしたのか考えてみることにする。

孔子について

孔子は紀元前552年から479年を生きた儒家の祖である人物である。名は丘、字は仲尼という。春秋時代、魯の国(現在の山東省曲阜)に生まれた。彼の伝記に関しては、非常にフィクショナルな部分が多く、おそらく伝承をまとめたものではないかと考えられている。

画像2

(孔子)

学者としての名声は高く、弟子も集まったものの、政治家としては不遇の人生を送った。各地を流浪して、自らの政治方針を売り込もうとしたものの、どこにも採用されることはなく、晩年は教育に専念したようである。彼の思想は、『論語』という書物によって伝えられている。『漢書』「芸文志」には、『論語』に関して、以下のような概説がなされている。

論語者,孔子應答弟子時人及弟子相與言而接聞於夫子之語也。當時弟子各有所記。
《現代語訳》『論語』は孔子が弟子や当時の人々に返答し、また弟子たちが互いに問答して夫子から 直接聞いたことの語録である。

つまり、『論語』は孔子が自作したというわけではなく、弟子たちが各々記録していた孔子の教えを、それぞれが持ち寄って編集したものであると考えられる。では、次に孔子が『論語』においてどのような思想を展開していったのかを見てみることにする。

孔子の思想

孔子の思想のポイントとして挙げられる点は、1点目として、人間中心であり、日常から政治・道徳までを敷衍して思想を展開していたことを挙げることができる。2点目として、徳治主義を推し進め、人格的に優れた人物、即ち有徳者によって政が執り行われる状況を理想形とした。また、『論語』によれば、彼は「周」王朝に憧れを抱いていた。その事は、『論語』「述而 第七」において、以下のように述べられている。

子曰く、甚だしいかな、吾が衰えたることや。久しいかな、我復夢に周公を見ず。
《現代語訳》老先生のことば。ひどいものだなあ、呆けてきたわな、このごろ。もう長い間〔あれほど慕ってきた〕周公の夢を見なくなっている。

「周公」とは、周王朝の建国の祖である武王の弟の旦の事を指す。周公の子孫は、孔子と非常に関係の深い地である「魯」の国の君主であった。

また、魯国の制度は周王朝に準じたものとなっていたようである。上記の記述から、孔子が「周公」を敬愛し、尊敬の念を抱いていたことを伺い知ることができる。

その為、彼は「周公」が基礎を築いた、「周」の文化、そして政治体制が理想であると考え、そのような体制に復帰する事こそが、国家を運営していくにあたり得策であると思考したと考えられる。

また、この主張は、「復古主義」的なコンセプトであり、なにか新しいものを提示するよりも、人々にとって理解が容易で受け入れ易い傾向ある為、思想をバズらせる為に持ち出してきたとも考えられる。

孔子の理想とした統治体制

前項で考えたように、孔子は徳治主義をもってして国を治めることをコンセプトとしていた。その前提条件として、孔子は以下のように述べている。

子曰、其身正、不令而行。其身不正、雖令不從。           《現代語訳》老先生の教え。上に立つ者は、己のありかたが正しければ、命令しなくとも、人々は方針に従う。そのありかたが正しくなければ、命令したとて方針に従わない。

このことから、政治の中心となる人物は、善い人間であること、有徳者であることが期待されていた事を読み取ることができる。自ら德を示し、規範を遵守することによって、民を感化する指導者像を孔子は提示したかったものと考えられる。つまり、トップダウン式の統治機構を目指していたと考えられる。

子曰、道之以政、齊之以刑、民免而無恥、道之以德、齊之以禮、有恥且格。
《現代語訳》老先生の教え。行政を法制のみに依ったり、治安に刑罰のみを用いたりするのでは、民はその法制や刑罰にひっかかりさえしなければ何をしても大丈夫だとして、そのように振る舞ってなんの恥ずるところもない。〔しかし、その逆に、〕行政を道徳に基づき、治安に世の規範を第一とすれば、心から不善を恥じて正しくなる。

上記の記述から、法をもって民を縛り付けていたのでは、限界があることを孔子は示したかったものと考えられる。行政官僚や政治家が模範を示し、その徳を慕って民が統治体制に忠誠を誓う、という組織運営モデルを孔子は理想としていたと考えられる。

次は墨子の思想をみてみよう 

春秋時代末期から、戦国時代初期までの期間において、儒家と並んで、一大勢力を誇ったのが、墨家である。その始祖とされているのが墨子である。

名は翟といった。清朝末の孫詒譲の著作である『墨子間詁』によれば、周の定王(紀元前468-441)の初年に魯の国に生まれ、周の安王(紀元前401-376)の末年に没したとされている。彼について書かれた記述の内、最も古いものは『史記』の中に見ることができる。

蓋墨翟、宋之大夫。善守禦、為節用。或曰並孔子時、或曰在其後。
(『史記』巻七十四 孟子荀卿列傳第十四)

司馬遷が墨子について、この一行しか記述しなかったことは、彼に関しての資料が甚だしく乏しい事を示しているといえる。宋(河南省)の人である、という説もあるが不明である。

彼は、非常に骨折って勤労する人として知られ、自己犠牲の精神を示して、他人のために粉骨砕身して奉仕したようである。また、墨子は優秀な技術屋であり、頑丈な武器や道具を製作することができた。

その彼の率いる教団は、精強な戦闘集団という側面を持ち合わせており、自らの思想を実際に体現するために用いられた。しかし、彼らは決して侵略することはしなかった。「墨守」という熟語が、墨家集団の守りの堅さを由来とするように、ただ「守る」という事だけに徹したのである。さて、諸子百家の時代においても特異な存在だった墨家の思想とはいかなるものだったのだろうか。

画像3

(画像の通り、墨家集団は思想の実践の為、各地の防衛戦に於いて、防衛側のコンサルタントとして戦闘に参加した)

墨子の思想

墨子を理想とする、墨家思想の特徴の1点目として、「兼愛」を挙げることができる。これは、無差別の愛を他人に示すことであり、この愛が欠けている為に乱世が続いているものとした。

また、自分と同じように他者も愛さねばならない、というイエス・キリストの黄金律のような主張もしている。

「他者」を「無差別」に愛さねばならない、というこの思想は、ベクトルが一方向しかない儒家の思想と異なり、双方向性を持ったものであると考えられる。この点は、儒家と墨家の大きな相違点である。

そして、この「兼愛」を拡張していくことが安定への道であると説いた。

若使天下兼相愛、國與國不相攻、家與家不相亂、盗賊無有、君臣父子、皆能孝慈。若此 則天下治。故聖人以治天下為事者、惡得不禁惡而勸愛。故天下兼相愛則治、交相惡則亂。故子墨子曰、不可以不勸愛人者此也。
《現代語訳》もし世界中の人々に、自己と他者とを区別せずに愛し合うようにさせたならば、国家と国家は互いに攻伐せず、家門と家門とは互いにかき乱されず、盗賊もいなくなり、君主と臣下や父と子の間も、すべて孝慈の関係で結ばれるであろう。このようであれば、間違いなく世界中が安定する。もとより聖人とは、世界全体の統治を自己の事業とする者である。どうして他者を憎悪する行為を禁じて、他者を愛する行為を勧めないでおれようか。だから世界中が、自己と他者とを区別せずに愛し合えば安定し、互いに憎みあえば混乱する。だから墨子先生が、他者を愛することを勧めないわけにはいかないといわれたのも、こうした理由からなのである。

上記の事柄から、墨子の「兼愛」とは、

①自己または自己の属している社会的な単位・階層と、対応する他者を差別しない

②私利私欲の為に他者を利用する行為を禁止

という二点に代表されるような思想であったと考えられる。そして、その「兼愛」の積み重ねによって、最終的に平和を得ようとした。

墨家思想のもう一つの特徴である「非攻」とは、「兼愛」を国同士の関係に拡張したものである。侵略戦争を批判する墨子の思想を鑑みれば、このように思想が展開していくことは至極当然のことであるといえる。

実際、墨家集団は「兼愛」「非攻」の実践として、防御戦を支援、そして防衛コンサルタントとして篭城戦等に参加した。

さて、思想だけにとどまらず、先鋭的に自らの思想を行動に移した墨子は、どのような「理想の統治体制」を思い描いていたのであろうか。

墨子の理想とした統治体制

墨子の理想とした統治体制は、「尚賢」と「尚同」という2本の柱からなっていた。「尚賢」とは、即ち国家に忠節を尽くす人材の育成と、有能な人材を、身分を問わず登用するという方針を指す。

是故國有賢良之士衆、則國家之治厚、賢良之士寡、則國家之治薄。故大人之務、將在於衆賢而己。衆賢而己。                  《現代語訳》したがって、国内に賢良の士が多ければ、国家の安定度は増し、賢良の士が少なければ、国家の安定度は減少する。だから、為政者の最大の任務は、自国内に賢者を増やす点にこそあると。

上記の記述において、墨子は一つの国家を設定し議論を展開している。つまり、「賢良の士」という語が用いられているが、これは国家にとっての「賢人」であり、統治機構の定めたプロトコルに対して忠実に従う人材を指すものと考えられる。

特定の才能を持つ人材は勿論の事ながら、"国家に忠実な国民"を増やすことを墨子は主張したかったものと考えられる。

それに伴い適切な人材登用が行われることを墨子は重視した。

この「尚賢」の思想は「尚同」という思想へと発展した。

是故選擇天下之賢可者、立以為天子。天子立、以其力為未足、又選擇天下之賢可者、置 立之以為三公。天子・三公既以立、以天下為博大、遠國異土之民、是非利害之辯、不可一二而明知。故畫分萬國、立諸侯國君。諸侯國君既己立、以其力未足、又選擇其國之賢可者、置立之以為正長。
《現代語訳》そこで世界中から賢者を選び出し、これぞと見こんだ人物を天子に立てたのである。天子は即位したが、自分ひとりの力だけでは不足だと考え、また世界中から賢者を選び出し、見込んだ人物を天子の輔佐役である三公に据えた。こうして天子と三公は立ったが、彼らは天下は広大であって、遠い国々の民の習俗や、地域ごとの価値観の差異、利害のくい違いなどの識別は、情報が入り乱れて、とても明瞭には知り尽くせないと判断した。そこで世界中を多数の国家に区分して、それぞれに諸侯を封建した。諸国の君主はすでに封建されたが、自分一人の力ではまだ不足であると考え、さらに国中から賢者を選抜し、意にかなった者たちを、郷長や里長に任命した。

墨子は、諸国がその体制を維持し、その中で安寧の道を模索しようとしたと考えられる。つまり、天下統一よりも、その当時存在していた国家同士がバランスを維持することで平和を世の中にもたらそうとしたのである。

加えて、天子を頂点とした、ヒエラルキー型組織を重要視していた事を読み取ることができる。それぞれのレイヤーで統治を行い、問題が発生した場合には、まず自分達で問題解決を試み、処理できないには1つ上の階層に伺いを立てるというシステムを、墨子は構築しようとしたものと考えられる。

また、天子の暴走・独裁化に歯止めを効かせるために「天」という存在を想定した事も、墨子の理想とした統治体制の特徴なのだが、それはまた別の機会に取り上げたいと思う。

まとめのようなもの

本稿では、孔子の思想&墨子の思想という、諸子百家の中においての二大巨頭であった2つの思想から、どのような「統治体制」を「理想」としたのか考えてみることができた。

孔子は、精神的な部分を重要視し、道徳によって民を導く方針を提示した。そして、必要十分条件として、君主に徳を求めた。統治体制が規範を見せることで、民の間に徳が浸透し、それぞれの家々においても徳が実践されるならば、統治体制が特に手を加える事はなくても、国家運営は円滑に進むのではないかと思考したと考えられる。

一方、墨子は、階層化され高度に組織化されたヒエラルキー型の統治体制を推奨した。これは、「墨家思想」を実践するために、実際に戦闘に身を投じていた墨家らしい構想であるといえる。即ち、国家も軍隊も整然と組織化されていなければ全く使い物にならないという点を自分達の体験から骨身に沁みて理解していたのではないかと考える。

同時代に現れた思想でありながら、異なるコンセプトをもって、国家に提言すると共に、自らの学派集団の生き残りを賭けて試行錯誤した二つの学派集団は、現代の我々にとって非常に知的好奇心を刺激するものであるといえる。

(taro)

...以下の記事は番外編である。併せてどうぞ。


参考文献                              浅野裕一[著]『古代中国の文明観』岩波新書,2005年
浅野裕一『墨子』講談社学術文庫,2006年
加地伸行『論語 増補版 全訳注』講談社学術文庫,2009年         桑原隲蔵[著],宮崎市定[校訂]『中国の孝道』講談社学術文庫,1989年
日原利国[編]『中国思想史 上』ぺりかん社,1987年

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?