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表現の不自由

幼い頃、自由帳にらくがきをしていると、クレヨンがはみ出して床に描いてしまい、親に怒られた。

だって、自由帳って小さいんだもん。
つまんないよ。
じゃあ、今度はもっと大きな紙を用意して自由に描こう。
これならはみ出さずにどこまでもえがけるはず。
自由に、どこまでも、どこまでも…

それでも、紙の四方は「終わり」である。
その紙をどんなに大きく広げたって、必ず終わりが来るんだ。
どこまでも自由に描ける紙なんて存在しないんだ。

幼い頃、そんな風に思った記憶がある。

連日報道され、賛否両論ある表現の不自由展。
表現の不自由、というのはまさにこの額縁を超えた世界を言っているような気がしたのだ。

私は芸術というものは額縁、つまり多少の不自由や制限かあるからこそ成立するものだと思っている。
その額縁は時に社会が、時に自分自身で決めるのだが、少なくとも額縁のない完全に自由な芸術なんて存在しない、存在するとするならそれは芸術とは呼ばないような気がする。

津田大介氏に言わせれば、あの自由帳から床にはみ出したクレヨンもまた芸術であったのだろうか。

芸術とはなんであるか。
その答えはまだわからない。
でも、本当の芸術はどこかで誰かを幸せに導くためにあるものであってほしい。
親を怒らせるために描いたんじゃないから。
あの日、自由帳に描いていたのは親の似顔絵だったのだから。

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