あの日No.2(後編)

(続き)

「あの。義忠さん。今日はお願いがあってきたんです。」
お願い?そんなに改まって言われるようなことはあっただろうか。
振り返ると手を握りしめ、真剣な表情を浮かべる康介の姿があった。
「農家、やめないで続けて欲しいんです。大熊にいた時から義忠さんの作る米や野菜、嫁も大好きだったんです。次の春には子どもも生まれて、俺たちが食べて感動した福島の味を、伝えていきたいんです。」

まっすぐな眼差しに、少し引け目を感じながら言った。

「ありがとう、嬉しいよ。でも、もう決めたことなんだ。金銭的にもギリギリで、もう後がなくなったんだよ。再来年には和彦の高校進学も控えているしな。もう、農業にこだわってはいられないんだ。」

これが考え抜いて出した答えなのだから。

「もし、農業をやめたら、本当に何もかも失ってしまうじゃないですか。東京から帰って来た時、自分の居場所を作ってくれたのは親父さんから受け継いだこの仕事なんだって誇っていたの、今でも覚えていますよ。俺…」

「!」

はっとして胸を突かれるような感覚がした。
幼い頃から土にまみれて、本気で農業に携わって来た父の背中が脳裏に浮かぶ。

「それに、もうすぐオープンする新しいケーキショップの新作に、義忠さんが作る米や野菜とぜひコラボレーションしたいんです!
嫁とも話したんですけど、やっぱり俺たちにとっての大熊の、故郷の味を商品に生かしたいって思ったんです。

…被災して避難して来た俺たちにできることは、土地は奪われても、50年先まで大熊で生きて来た心を伝えていくことじゃないんですか。」

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鶴ヶ城に花舞う季節。

「朝からお疲れ様。ちょっと張り切り過ぎじゃない?もう少し肩の力抜いたら?」
田植えの準備をしていたところ、外に弁当を持った妻が出て来ていた。
「ああ、ありがとう。いや、今年は康介と茜ちゃんとこに売るんだから張り切らないと。どこよりもうまいもんを作って売って、原発事故になんか負けずに頑張ってるんだって知ってもらわないと。…やっぱり、親父が俺に残してくれた仕事だから。」

父が最後まで故郷にこだわり続けた理由。
田舎を飛び出し上京した10代の頃には分からなかったが今ならわかる。
夢とか希望とか。
確かに馬鹿馬鹿しい。
この世の中には自分の力ではどうにもならないことの方が多いのだ。
けれど、そのどうにもならない困難を乗り越える強さは夢とか希望とか、馬鹿馬鹿しいことに全力で取り組んできた過程の中にしかないんだと、今では思える。
私の仕事を求めてくれる人がいるのなら。
誰かを少しでも笑顔にできるなら。
そして、その仕事で大切な家族を支えていくことができるなら。
もう一度、馬鹿馬鹿しく生きてみたいと思う。
天国の父も笑ってくれるだろう。
故郷の地は失っても、心は失わぬよう。

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