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第20回 神戸・新開地「中内㓛さんと会ってきた」

新開地を通り過ぎていった人々

今回から、神戸・新開地と縁があった人物を取り上げる。
なかでもダイエー創業者の中内㓛氏(以下敬称略)は、私が最も新開地を体現していると感じている人物である。

生まれ育った土地や若い頃に過ごした地域自体が人に対して大きな影響力を持つケースがある。今後も淀川長治、横山ノックなども取り上げながら、人を通じて神戸・新開地の地場の力というか、風土的なものを検討していきたい。

同じ新開地界隈の薬局

最近、ダイエー創業者で流通革命の旗手でもあった中内㓛(1922~2005年)と会ってきた。
もちろん実際にご本人と面会したのではなく、流通科学大学内の中内㓛記念館を訪問したのである。

今まで二回足を運んだ。一回目は知人の流通科学大学の教授に案内してもらって、記念館の人からお話を伺った。二回目は大学の学園祭の時である。

私の実家は中内㓛と同じく神戸・新開地近くにある薬局だった。
父は1922年〈大正11年〉生まれで、中内と同年齢。またミステリーの大家である横溝正史氏も実家は同じ地域の薬局だった。

「新開地の薬局のおっさんは、みな出世するのに例外もあるなぁ」と、父が近所の商店主にからかわれていたことを思い出す。

記念館にあるサカヱ薬局は、中内が子どもの頃過ごした建物(神戸市兵庫区東出町三丁目)を移築したものである。

薬局の中にある調剤室も顕微鏡も私の実家にあるものとほぼ同じだった。

1階は店舗で、2階の3畳と6畳の2間のスペースで、父母と中内㓛を含む4人の兄弟6人が暮らしていた。昔ながらの商店は店舗付住宅で、家族が住む居住空間はどうしても狭くなる。風呂はない。中内㓛は私と同じく近くの銭湯に通っていたのだろう。

中内は神戸の下町にあるこの零細な薬局から、裸一貫で東京において一番の住宅地と言われた田園調布に大邸宅を築き、一時期は毎年のように長者番付の上位にランクされるまでになった。

記念館の中では、当時の牛乳石鹸や金鳥の蚊取り線香なども見ることができた。まるで小さい頃の実家に戻ったような錯覚が生じた。世代は異なるが、私と同じように薬局の店内から外の風景を見ていたのかもしれない。 

絶頂から凋落へ

中内㓛は、神戸三中(現・兵庫県立長田高等学校)を経て、1941年に兵庫県立神戸高等商業学校(新制神戸商科大学の前身。現・兵庫県立大学)を卒業。戦時中のため繰り上げ卒業になった。

中内は召集されて、時には零下40度を超える極寒のソ連国境の関東軍に配属された。そこから一転して、灼熱のフィリピン戦線への転戦命令を受ける。
手りゅう弾を浴び、生死をさまようなかで「もう一度うまいすき焼きを食べたい」と家族団らんを頭に思い浮かべた。戦死した人をしのび、「安心して物が買える社会を作りたい」という思いが彼の戦後の原動力となった。

彼は商品を安く売るため、価格はメーカーではなく小売り側が決めるとする「流通革命」を実現しようとする。
生産者から何度も出荷を止められながらも「消費者のため安くするのがなぜ悪い」と闘い続けた。牛肉を止められると、海外の子牛を買い、国内で育てて対抗した。洗剤会社の出荷停止には、公正取引委員会に訴えた。また自社工場を作り、各種の独自ブランドも築いた。

1972年には三越を抜き、小売売上高日本一になった。
戦後日本の流通業界の先頭を走ったが、バブル崩壊によって地価の下落が始まり、ダイエーの経営は傾き始めた。
1995年の阪神・淡路大震災で店舗も大きなダメージを受けたことが凋落に拍車をかける。2001年、経営悪化の責任を取り、ダイエーの代表取締役を退任した。

阪神・淡路大震災の中内㓛

私が中内について一番印象に残っているのは、阪神・淡路大震災の時のことだ。
日時の記憶は明確ではないが、この大震災の直後は交通も寸断されていて、簡単に神戸に入れなかった。
私はテレビを見ていて画面に釘付けになった。大阪の南部から船を仕立てて、神戸に入る中内を映していた。しかも船の前面に立ち、背筋を伸ばし、まさに仁王立ちである。崩れた神戸を、自分の生家近くの中突堤を凝視していた。

震災当日の私の記憶は今も鮮明である。
1995年1月17日早朝、突然の大きな揺れの中で自宅で目が醒めた。『神戸には地震は起こらないはずだ』と心で叫びながら、揺れの後半は家が崩れるのではないかと畳の上に両腕を立てていた。
地元のラジオ関西は、火災や自宅がつぶれて生き埋めになった人の家族の声を伝えていた。

これは大変なことになった。
家の片付けが一段落した時に、私の頭に浮かんだのは今後の水と食料の確保だった。 

駅前のコンビニに行くまでの景色は、倒壊した家屋、崩れた土塀、それはもう今まで見たこともない凄惨なものだった。
ローソンに着いて驚いたのは、床に散らばった商品とは対照的に、陳列棚の間のスペースに二列にきちんと並んだ客の列だった。

私は棚から転がり落ちていたお茶やジュースの缶を手にして列の後ろについた。
その整然とした雰囲気を作り出しているのは、カウンターで必死にレジを打っている男女2名の若者であることに気がついた。彼らは手際よくレジを打ち、元気に声をかけながら次から次へとまさに鬼気迫る勢いで応対していた。

私はなぜ、この二人がここまで一生懸命なのか分からなかった。
自発的な行いなのか、会社からの指示なのか、早く家に帰りたい一心なのか。また同時にこの若者の家は大丈夫なのか、家族の無事は確認できているのか、無性に心配になってきた。私だけでなく黙って並ぶ人たちも同様なことを思っていたのではないか。

いずれにしても、何も語らずその行動だけで、20人程度を統率している二人の若者を前にして涙が出そうになるのをこらえていた。

佐野眞一の『カリスマー中内とダイエーの戦後』

あの二人の若者の素晴らしい対応は、一体どうして生まれたのか? 
その時はボンヤリとした疑問であったが、その後、佐野眞一が中内㓛について長期間にわたり徹底取材して書いた『カリスマー中内㓛とダイエーの戦後』を読んでいる時に、ローソンでの疑問がもう一度思い出された。

カリスマー中内㓛とダイエーの戦後(1988年/日経BP).686ページの大著である

佐野は中内に長期間にわたって何度も入念なインタビューを行なっている。
綿密な調査を前提に常に批判的な視点を失わずに執筆しているが、阪神・淡路大震災でのダイエーおよび中内㓛の対応については評価している。

「阪神大震災におけるダイエーの水際だった救援作戦は語り草になっている。手を拱くばかりの政府を尻目に、中内は陣頭指揮をヘリコプター、フェリー、タンクローリー、大型トラックを総動員して被災地神戸に救援物資を送り続けた」と述べている。

彼の著書から震災当日の時系列な部分だけを抜き出すと、
・中内は1月17日午前5時49分に流れたNHKの臨時ニュースを見て災害対策本部の設置を命じる。
・午前7時に浜松町に対策本部を設置(政府の設置決定の3時間前)。
・午前7時30分、「流通業の生命線は生活必需品の確保にある。開けられる店はすべてあけろ」と指示を出し、厳命する(17日、18日は正月の休日振替で全店休業だった)。
・午前11時、現地の対策本部長になった専務が、新木場ヘリポートから神戸ポートアイランドへ向かう。
・午後1時45分、ポートアイランドに到着。そこから液状化の道を泥だらけになって2時間かけて歩き、ハーバーランドに現地対策本部を設置。
・午後8時45分、福岡から飲料水、おにぎり、カセットコンロを満載したフェリーが出港。

当時は、ダイエー系のコンビニチェーンのローソンも復旧体制もスピーディだった。
これも著書から確認すると、
・午前7時半、大阪本社に対策本部の設置、午前10時半には担当専務が神戸に向け出発。
・夕刻、水、ラーメン、おにぎりが東京、名古屋、岡山から被災地に向けて出発。
・地震発生当日、中内は24時間営業継続の指示を出し、あわせて被害者を勇気づけるため、「店は閉めても明かりだけは終夜灯し続けろ」という大号令をかける。
・経営指導員など内部部門の750名のうち、半数を被災地に投入。バイクや自転車で加盟各店を廻った。

前述したローソンの様子は、働いていた若者が素晴らしかったことは言うまでもないが、ひょっとしたらローソンの組織としての対応でもあったのかもしれない。
いずれにしても政府のメッセージも、自治体の対応も何もなかった時点でのことだった。

敗戦を正面から引き受けて大義を得る

学生時代の中内は目立たなかったという。
佐野は「中・高生時代の印象はきわめて薄く、エピソードらしいエピソードはついに聞くことができなかった。当時の写真をみても、目立たない少年という印象しか残さない。戦前と戦後でこれほど面貌が一変した人物も希だろう」と述べている。当時の中内の同窓生や先輩後輩にも相当数当たっている。 

なぜ、戦後に人が代わったかのように行動したのであろうか。
私が考えつくヒントは、神戸新聞(2024/2/10、2/11)に掲載された、『生誕100年山崎豊子が描いた「男」』という、社会学者で元京都大学大学院教授の大澤真幸の文章のなかにあった。

大澤の解説では、70年代初頭までの山崎作品に登場する「男」は、「白い巨塔」の財前五郎や「華麗なる一族」の万俵大介のようにダークな悪のヒーローで、人々のロールモデルにはならなかった。
ところが、後期の作品には、「不毛地帯」の壹岐正、「二つの祖国」の天羽賢治、「大地の子」の陸一心などの男たちには共通の原点があるという。

大澤は敗戦の意味を最も深いところで引き受けざるをえなかったことを指摘する。
壹岐は戦後11年間シベリアに抑留されて、東京裁判では連合国側に立った証言を強いられる。
日系米国人の天羽は、太平洋戦争で収容所に送られるが、言語調整官として東京裁判に臨んだ。しかしこの裁判の不公正や原爆の不条理を知り自殺する。
一心は敗戦時に中国に残された日本人孤児で、共産党政権下で差別や虐待を受けるが、中国の繁栄のために日本人技術者と協力して、製鉄所建設に人生を懸ける。

大澤によると山崎豊子の後期作品の男は、敗戦の喪失を引き受けて、完全な無の地点からつかみ直された大義を持っているというのだ。

佐野眞一は、『カリスマ』のプロローグの中で、「中内は戦後という時代と、高度経済成長のうねりを自ら体現した、最も代表的な日本人だった」と書き、それが中内を取り上げる理由だと語っている。

松下幸之助、本田宗一郎、井深大の3人は紛れもない成功者であるが、名誉と栄達を一身に浴びながら引退してすでに鬼籍に入っている。そういうサクセスストーリを書くつもりは全然なかった。戦争を体験した中内とダイエーを戦後史の流れの中に位置づけるとの観点から書いたという。

山崎豊子の作品を解釈している大澤と、中内を取材した佐野とは、対象は違っても同じ観点で述べていると感じたのだ。
敗戦を正面から引き受けて、そこから自らの大義を得ることは人を変えるに値することなのだろう。

佐野は、「あくなき業と、それゆえにいつもつきまとう脆さをもった中内㓛という男に、私はいささかの嫌悪感を持ちながら、それにもまして強く惹かれていく自分を感じていた」と述べている。

そして、「この震災で知人、友人に死者は出ませんでしたか」と佐野が尋ねると、「いや、いません。あの戦争でほとんど死にましたから…」との中内の回答に、佐野は一瞬胸をつかれたと述べている。

中内㓛の年表を眺めていて

たしかに、敗戦の意味を最も深いところで引き受けざるをえなかったことが、中内の子どもの頃と戦後とを分かつ分水嶺になったことは間違いないだろう。
しかしそれだけだったのだろうか。中内㓛記念館で壁に書かれた年表を眺めている時に、「いやっ、それだけではないはずだ」と直感した。

小さい頃に受けたその土地からの風土のようなものが人に与える影響は大きい。
私自身がそうだと感じているからかもしれない。中内について書かれた本を読んでいると、近所にも似たようなオジサンはいた、という感じがしてくる。同年齢だった私の父親とも共通する点があるのだ。

もちろん「いい人」ではなく、「食えない人」と言えばよいのか。
一筋縄ではいかない、厄介な、したたかな、手ごわい、一癖も二癖もある、油断できない、といった曲者なのである。

以前にも引用したが、神戸市東灘区出身の社会経済学者で放送大学教授の松原隆一郎氏の『頼介伝』(苦楽堂)は、彼の祖父の伝記であるとともに、「神戸とは何か、自分はどこから来たのか」を考える旅に出た力作である。

その中で、彼の祖父である頼介が神戸・新開地近くの東出町にいた時には、西出町の日本最大となる暴力団の創始者である山口春吉(1881~1936)、同じ西出町の日本画家の巨匠東山魁夷(1908~1999)、東出町の中内功(1922~2005)、東川崎町の昭和を代表するミステリー作家である横溝正史(1902~1981)などがこの狭いエリアにひしめいていた。そして彼らは一様にこの町の空気を吸って育ち、この町を後にした、と書いている。
ちなみに映画評論家の淀川長治氏(1909年- 1998年)もすぐ近くで同時代を過ごしている。

ここに挙がった人たちは、親から受け継いだものや頼れる組織に安住した人たちではない。いずれも自分の足でしっかりと立っている。
そういう土地の風土というべきものが、彼らに影響を与えているのではないか。中内とダイエーの戦後の発展と凋落のベースには、自主独立心とでも呼ぶべき神戸・新開地の気風が影響しているのではないか。

私の周囲にいた当時の大人たちは会社員や公務員はいなくて、商人や職人、芸人など自らの足で立っている人が多かった。
誰もが建前を言わずに本音で話す人たちばかりだった。

私が生命保険会社に入社した時に一番驚いたのは、メンバーの協調を旨として周囲と一緒に仕事を進めるやり方だった。それは私が子どもの頃から周りの大人たちから受けた刺激とは明らかに異質のものだった。
神戸・新開地が持つ気風が中内の自主独立心に影響している。そう感じながら記念館にある彼の資料を再度確認していた。

『カリスマ』の中に、中内が「戦後、神戸ででかくなったのはダイエーと山口組だけや」と語ったという話がある。
あえて言わなくても良いことだと思うが、こういう言葉を発すること自体、非常に新開地的だと感じるし、中内自身がこの地を体現している証左と思えるのである。流通業から初めて経団連副会長を務めた人物の発言とはとても思えない。

中内の実家と目と鼻の先ともいえるの川崎造船所に旋盤見習工として入社した山口組三代目の田岡一雄(1913年- 1981年)に対して、同じ地域で同じ期間を過ごしたというよしみを感じていたのかも知れない。 

『カリスマ』の中で佐野は、「中内と田岡という、よくも悪しくも戦後を代表する人物が、同じ神戸の場末を揺籃の地としたことは興味深い。中内と田岡を同一視するつもりはない。が、際立ったカリスマ性で人心を収攬し、己の“事業”を爆発的に拡大した点で二人が相通じるものをもっていた」と述べている。

日本の官僚組織が阪神・淡路大震災で手をこまねく中で、ダイエーと山口組の救援体制が当時目立っていたというのも興味を引かれる点ではある。







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