(創作)自動走行

 毎夕かかさずに行っているランニングを終えたあと、思わず倒れた。少し暗い室内のフローリングが頬に当たり、冷たかった。理由は分からないが、心臓がひどく痛い。再び立ち上がることができない。左胸の奥とその周辺が、まるで勢いよく外側に裏返ろうとするかのようだった。不思議と、頭だけは冴えている。
 倒れたまま仰向けになり、肩甲骨を床に擦り合わせる。右手は初めだけ胸をさすっていたが、しだいに厚い扉を開こうとするように、心臓のちょうど真上あたりを強く叩きはじめた。どうせ届きはしないのに、今すぐにでも自分の肋骨の真下に指先を滑り込ませて、異常が起こっている心臓に触れようとしている。自然と体がそう動いているのか、明確な意思から腕を振り回しているのか、正確には判断ができない。
 少しずつ左肩や左腕も痛み出した。今度は輪ゴムが何重にもなって締め付けてくるような痛みだ。このとき、初めて呻き声を上げる。だが苦しさのあまり、言葉を喋ることはできない。代わりにしわがれた「あ」や「う」「お」などの母音ばかりが流暢に発声され、昔のアニメに登場する類人猿のようだと、わずかに面白くなる。頭ではすでに入院したときの治療費等を大雑把に計算しはじめていて、どうやらこの激痛は本質的な意味では思考を掻き乱すことなどないらしい、と思う。
 下半身はまだなにも感じていなかった。ただ上半身が捻れたり跳ねたりするたび、それにつられて両足もおかしなポーズをとり続けている。いつか筋肉が攣ってしまうのではないのかと、心配になった。
 天井の中央にある電灯が眩しい。瞼を閉じると、暗闇の中で死体のようなダンスを踊っている気分になる。フローリングは平たくて硬いせいで、頭はごつごつとして痛いし、手足はときどきどこかの家具にぶつかる。子供の頃、一人で蟻の脚をちぎって、その動作を何十分も観察する遊びをしていたが、今の自分は似たような醜態を晒しているようだった。そろそろ陽は落ちてきただろうか。瞼を開きたいが、閉じていた方が安心するような気がする。胎児は子宮の中で常に目を閉じているから、人間にとっては何も見えない方が安心するのだろうか。だが、夕焼けが窓から差しているのか、風もない廃墟のように暗いのか、周囲の様子ひとつで今後とるべき行動が変わる。ポケットに入れたまのキーホルダーが臀部に当たる。痛くはない。
 冷蔵庫の製氷機が氷を砕いた。硬くて小さなものが立て続けに落下する音が耳の奥で聞こえる。足がドアを押したようだ。勢いよくドアが閉まり、少し驚く。
 苦痛であることは事実で、体の中を縫い針が泳ぎまわるような不自然な感触が長く続いているものの、はっきりとした意識はまだ機械的に駆動しているらしい。
 さっきまでのランニングを思い出していた。家の近所に大きな川がある。土手をただひたすら長く長く走っていると、なぜかいつも泣きたくなる。川下へ向かい、いつか海に出てそのまま水平線の彼方へ泳ぎに行きたいと考えるが、走り始めて数キロで疲労してしまうし、何より水泳は不得意だった。海も、ずっと遠くにある。土手を挟んだ川の反対側には古い木造建築の住宅が細胞のように並んでいて、そこの標高は水面よりも低い。だから水が溢れでもしたら一帯はすべて水没してしまうはずだが、屋根よりも高い場所から家々を見渡すと、すでに辺りは重い空気の底に沈んでいるような気がした。
 そういえば、この家も海抜ゼロメートルだった。今上げている呻き声も、本当は分厚い空気の波に溺れているせいなのかもしれない。陸に上がった真っ黒な深海魚のように、体表面に受ける圧力が変化して、内臓が膨らんだ風船みたいに口まで迫り上がりそうだ。両目と両耳それぞれのあいだで、心臓の鼓動が鳴り響いていた。
 終わらない痛みが永遠に続くのかと、センチメンタルなことを考えた瞬間、ようやく真面目に死を連想した。ただ、こういった状況に陥ってもなお、まだ死と苦痛に直接的な関係性を見出すことは困難だった。なぜか、自分が死んだあとも遺体と一緒に痛みも残るか、痛みながら永遠に生き続けるか、どちらかしか選択肢がないように思えた。いずれも、望遠鏡を逆さに持って世界を眺めているようで、現実的な思考ではなかった。
 瞼が痙攣して、視界にわずかな光が侵入する。光は白かった。再び蟻の記憶を呼び起こすが、今度は五体満足で、落ち葉の陰を列になって進んでいるようすを連想した。行列の先には何があるかは知らない。触覚を震わせながら、同族の残した臭いを追う。同族の鳴らす足音は着色された煙幕のようで、確実に存在するが、決して実体を掴むことはできないらしい。
 ひたすら行進する。進め。俺/俺たちに「個体」という概念はありえない。
 雨上がりの、湿っぽい枯葉の、むんとした熱気を黒い肌に浴びる。催眠をかけられたみたいだった。
 徐々に痛みがより激しくなっていく。さすがに連続的な思考を紡ぎ出すことはできなくなってきた。どこまでも遠くへ攫われた魂が、体との間に通っている透明な臍の緒できつく縛りあげられ、窒息させられているようだ。だがそれでも、細かい網目に覆われた意識から、取り留めのない言葉が漏れ出てくる。
 音楽のような、蟻たちの足音はまだ頭の中で響いていた。少しずつゆっくりとしたテンポへと落ち着いているが、明らかにこれは蟻たちのものだ。心なしか、ランニングするとき、弾む両足が互いに交差するリズムと同調しているような気がする。感じることが、俳句のようにすべて単調化していた。激痛の波も、すでに収まっているようだ。号泣したあとに似た疲労感が、腹部を中心に手足や頭へと拡がっていく。
 そういえば、高校の卒業式で三年間片思いしていた同級生に告白しようと、式の前後、声をかけようとずっと時機を見計らっていたが、結局最後まで話すことができずに帰宅したことがあ………

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