(エッセイ)振り向いてよ、映画

(この記事は書き手が今年度のアカデミー賞受賞式にて「思ったこと」に関して、さらに「思った」ことを書いた記事です。つまり「感想」の感想文です。だからこの内容を一般に適用できるものとしてではなく、こう考える人もいるんだな〜と読んでくだされば幸いです。)

 2022年の3月28日、第94回アカデミー賞受賞式が開催された。過去1年間で公開された映画から、より優れた作品を各部門ごとに顕彰する、国際的な映画の祭典である。授賞式には見事にドレスアップしたハリウッドセレブや海外からやって来た各国の映画人も集まり、文字通り映画好きにとってはお祭り騒ぎとなる。
 ところが今年度のアカデミー賞は、ある事件が起こったことにより物議が醸されることとなった。それは受賞式に出席したウィル・スミスが、同席していた妻のジェイダ・ピンケット・スミスの脱毛症をジョークにして嘲った、コメディアンのクリス・ロックを平手打ちにしたことに始まる。会場は当然唖然とした空気に包まれたが、その後ウィル・スミスは「ドリームプラン」で主演男優賞を受賞し、その際スピーチで映画の主人公と自身を重ねながら、家族を守ることについて語り、ステージにいる観客へ謝罪した。授賞式後の記者会見は、暴行について追及されることをおそれたのか、すべてスルーして帰っていったという。
 クリス・ロックはこの件について被害届を提出するつもりは現段階で無いそうだ。しかし授賞式を運営する映画芸術科学アカデミーは、ウィル・スミスに対するなんらかの処分を検討しているという。また、ウィル・スミス本人も、その後自身のSNSアカウントにて正式な謝罪文を掲載した。当然、アメリカ国内外はこの事件に関して多くの批判が寄せられている。
 ここまで大まかな流れを記事的に紹介したが、本題はここからである。平手打ちという、明らかな暴行については各所から非難の声が上がり、場合によってはウィル・スミスがアカデミーから追放される可能性もあるという。いつの時代も、暴力はできるならば避けられるべきだし、決して許されてはいけないはずだ。
 しかし、この件についてはなぜか不思議と妙な感動をおぼえるのである。倫理的かつ法的な問題以前に、彼の行為が重い意味をもっていち個人の琴線に触れてしまうのだ。本来は暴力ダメ絶対とはっきり言うべきなのだが、こうして不思議な感覚におちいったこともまた事実で、だから釈然としない気持ちをなんと文章にしようとして今こうしてnoteを書いている。以下ではこの気持ちを深掘りしようと駄文を続けるが、なんとなくでいいからゆったり読んで欲しい。読みたくない人はここで止めてもらって構わない。
 そもそもアカデミー賞について熱っぽく語ってはいるが、実は映画についてはあまり詳しくない。小さい頃から父がよくリビングで映画を観ていたからそれに釣られていただけで、いわゆるシネフィルという存在には決してなれないし、それ以前に役者や監督の名前すらよく覚えられていない。だがウィル・スミスは物心ついた頃からハリウッドの大人気俳優である。その主演作のいくつかは繰り返し観てきた。
 荒くれ者の超人が世界を救う「ハンコック」や、未来社会でロボットたちの暴走に立ち向かう「アイ、ロボット」、ゾンビの溢れた街で孤独に生き抜こうとする「アイ・アム・レジェンド」、そして何よりも、幾度となく見返した「メン・イン・ブラック」シリーズなど、幼少期から彼の活躍は目に焼き付いている。ちなみに有名な「バッド・ボーイズ」、「インデペンデンス・デイ」はちゃんと観たことがない。
 決して映画ばかり観ていたわけではなかったが、昔からインドア派で、時間を潰すのにテレビで放送されている映画は最適だった。現在の人格構成に大きく影響を与えたもののひとつとして、ハリウッドの大作映画をまず挙げることができるかもしれない。
 しかし最近は、映画に見入るような機会があまり無い。子供の頃よりも忙しくなったり、集中力が減退していることも原因として挙げられるだろう。またYouTubeで短い動画を連続で再生しているうちに、長編の映画を鑑賞する時間を失ってしまっている。けれども考えてみれば、もっと根の深い部分、そもそも映画を観る動機そのものが、昔日のそれと比べてだいぶ削がれているような気がしてくる。つまり、映画を観る直前や途中、鑑賞後に感じる一種の高揚感のようなものが、どこかへ消えてしまっているのだ。
 原因はきっと、成長して多くの情報を収集しやすくなった結果、その作品に関するメタ的なデータがノイズになってしまったからなのだろう。今はスマホがあって、手元を弄るだけで世界中の情報が最速で入手できる。だから作品の評価、スタッフ、出演者までも一瞬で知ることができてしまうのだ。
 昔語りはしたくないのだが、そういう意味で子供の頃は未知の作品を何気なく観始め、よく知らない世界に迷い込んだ気になったり、あまり有名でない作品や役者を詳しくないままに好んでいたりしたことがよくあった。けれど現在は、映画と現実が適度な距離感を測ってくれようとしない。本当の意味で映画を楽しみたかったらもう劇場に足を運ぶしか方法はなく、それ以外の場では絶えず現実が押し寄せてくる。むしろ、サブスクの充実によって、映画の方が現実の情報に接近したと考えることもできるだろう。
 こうした流れのなか、一方で何年も前から映画界は多くのスキャンダルが公にされてきた。ケヴィン・スペイシーが過去の性的暴行を告発され、ハリウッドに衝撃を与えたのは有名な例だろう。
 ケヴィン・スペイシーが主演を務め、オスカーも受賞した「アメリカン・ビューティー」は大好きな映画だが、この事件で非常にショックを受けた。実際の事件と作品内の描写が重なって、以前のように作品を鑑賞できなくなってしまった。そしてこの時、正直に言えば「映画に裏切られた」と思ったのである。
 幼少期から、わずかであれ生活の一部となっていた映画が当の映画自身の手によって、目の前で破壊されてしまった瞬間だったのだ。個人的に、映画とは虚構の世界を見せてくれるものだと思っていた。だがそれはただの思い込みで、映画はそれに携わった人々の酷い行為によって、現実の側から、観客を裏切った。
 それ以来、本当の意味で映画を信用することはできなくなってしまった。そして向こうも、こちらを二度と振り向いてくれそうになかった。そもそも、互いに遠くかけ離れてしまったような気がする。ただ虚構と現実の距離だけは淡々と接近して作品の価値判断に影響だけは与えていた。
 ウィル・スミスの話に戻ろう。彼は妻が侮辱されたことに怒り、コメディアンを殴った。これ自体は立派な暴行だろう。ではここで彼の立場になって考えてみれば、家族を守るために世間の非難を浴びてでも行動する勇気と愛情があったのは確かなのだ。側から見ればそれを蛮勇と呼ぶこともできるだろう。しかし信念に基づいたものではあるのだ。
 先述した感動とは、まさにこのことを指していたのである。幼少期からずっと憧れ続けていたが、現実の汚れた手によっていつか崩壊してしまった映画の世界は、この瞬間だけ本来の姿を取り戻した。ウィル・スミスは壇上に登り平手打ちをしたとき、まさに彼自身がこれまで演じてきた、危険を省みず愛する者を救おうとする映画の主人公そのものだったのだ。長く構ってくれなかった映画が、ようやくこちらへ振り向いてくれたのである。
 アメリカでのウィル・スミスに対する人々の対応は、非難する声がほとんどらしい。同国人だからこそ知っている夫妻の裏事情もあるのだろう。またフェミニズム的な観点からも彼の行動には批判が寄せられているし、そもそもの法的・倫理的な面から当然問題視がされている。
 そういう意味で、この事件に深く感動しているのは時代に乗り遅れた感性によるものなのかもしれない。そして、だからこそ最近の映画に対する姿勢も消極的なのかもしれない。ここまで読んでくれた方の多くは、「なんだ懐古厨のメンヘラ怪文書か」と思われるだろう。反論は無い。実際その通りなのだから。
 ただ切に願っているのは、再び子供の頃のような純粋な眼差しで映画を観たいということだけである。そして、今の子供たちも将来はまた別の理由で子供の目に戻りたいと思うだろう。
 一瞬だけ映画はこちらを振り向いてくれた。しかし本当の意味で関係を修復できたたわけではない。なぜなら現実の受賞式の出来事を映画と重ね合わせているだけなのだから。本当に映画そのものと和解するには、現実の出来事とは無関係に、これからもウィル・スミスの主演作を観ても、作品内の虚構をすべて虚構として楽しむ余裕を作らなければならない。そしておそらく、そんな日は絶対に訪れないだろう。
 ちなみに、2016年の授賞式ではクリス・ロックがアジア人へのブラックなジョークを飛ばし(これはアジア人へのステレオイメージを強調することで敢えて人種差別を告発していた)、また同年には別のコメディアンがアジア系俳優を「小さな性器の黄色い人々」とアニメキャラのミニオンと比べながら発言し、両方とも激しく批判されていた。この際、当たり前だが彼らを壇上で殴る者は誰もいなかったが、後日複数のアカデミー会員が抗議をした。
 暴力は決して許されない。このことは必ず念頭に置くべきだ。しかしその上で、いち個人として小さい頃から憧れていたのは、現実の厳密な倫理規範ではなく虚構の過熱した愛と勇気の世界だったのだ。
 もしも現実の世界で正義を求めれば、それは過剰な犠牲と苦難しか生まないだろう。ならばせめて虚構の世界だけでも、果たしえない理想の世界を体感してみたいのだ。
 しかしそれは、やはり絶対に実現しないのかもしれない。

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