(エッセイ)嘘の晴れ、本当の雨

 今年の8月は頻繁に雨が降っていた。しかしこの気候が異常なのかといえば決してそうではなく、昨年一昨年を振り返ると、やはりこの時期は曇天やゲリラ豪雨が相次いでいたように思える。元来、日本列島は夏になると雨天に曝されやすい風土なのだろう。
 話は変わるが8月の初め、細田守監督の最新作「竜とそばかすの姫」を劇場で鑑賞してきた。言うまでもないが、夏休みに時間を持て余した子供やそれを連れる親たちに向けたいわゆる夏休み映画で、全年齢が楽しめるような娯楽作品だった。
 細田守作品といえば劇中に大きな入道雲がよく描かれることで有名である。それは監督の手癖のようなもので、登場人物の成長などを表現しているらしい。当然「竜とそばかすの姫」本編でも入道雲が出てき、それを見てはじめて細田守映画ないし夏休みを満喫している気になれる、いわば風物詩のようなものなのだ。
 ところでここ数年、青空を喰らい尽くすような入道雲を見たことがあっただろうか、と考えれば、その記憶が全然無いことに気がついた。コロナ禍で出不精になっていたせいか最近の空模様はまったく観察できていないし、1年以上前となると正確に覚えているかどうかも怪しくなる。
 そもそも地上や足元の景色はふだんから勝手に視界へ収まってくれるが、空は意識して見ようとしなければ、決して眼中に入ることがないのだ。だから空は空だけに意識を注げられるだけの心の余裕がある人間だけが見上げられるもので、スマホやパソコンにせっせと時間と苦労を捧げている大人には初めからあずかり知らないことがらである。
 幼少期には何度も入道雲を見上げていた記憶がある。しかしそれはもう10年以上前の記憶であって、理想化と合理化の生んだ幻影かもしれず、本当は入道雲を見たことは指で数えられる程度しかなかったかもしれない。
 昔どこかのテレビ番組で言われていたことだが、井上陽水の「少年時代」の歌い出し、「夏が過ぎ風あざみ」の「あざみ」は井上の造語であり、ただ語感が良いというだけで歌詞に組み込まれたのだそうだ。だから「あざみ」には意味らしい意味など存在しない。幼少期に見た入道雲も同じで、もしかするとうまく謳歌できなかった夏休みの思い出を美化するため、後に脳みそが親切心で描いた綺麗な偽物なのかもしれない。
 そう考えると初めに書いたように例年の夏休みはいつも曇りか雨で、まともな青空なんてほとんどお目にかかれなかったような気になってくる。そしてそれが現実なのだとしたら、日本の夏とは実に陰湿で不愉快なものということになるだろう。実現できないリビドーは空想によって昇華されるなどと精神分析で勉強したが、この目を背けたくなるような事実を抹消するために、夏を描いたイラストは青い空と青い海、風になぐ草原の上を滑る入道雲をよくモチーフに選ぶのかもしれない。
 細田守も、アニメでこういった美化に加担しているのだろうか。「竜とそばかすの姫」の終盤、雨の降る街のシーンが登場する。いままで書いたことを踏まえればこの描写こそリアルであり、真実の夏であるはずだ。だとするならこの作品はきっと、こうした嘘と本当の夏を何度も追体験できるように作られたのだろう。
 ふだんは頭の上の空のことなんて誰も考えない。記憶にあるのはただただ文句無しの日本晴ればかりだ。この文章には曖昧な推定文が多いように、不確かな思い出ばかりが際立って、なんとなく現実としての今現在が少し物寂しく思えてきてしまう。
 もしかすると十数年後、人々が回想する2021年の日本の夏はひどく晴れた空を広げているのかもしれない。未来で思い描かれる幻想の快晴の下の自分たちと、ようやく蒸し暑い8月を終えた今の自分たちの間にある溝は、いったいどれくらい深いものなのだろうか。

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