(創作)舟のうえ

 ジュニアは、父のフランクに誘われて釣りへ行くことにした。日曜日のよく晴れた日だった。空に雲はない。フォードのマスタングに乗ると、湖まで一時間ほどのドライブが始まる。
 父は最近母と折り合いが悪く、そのために自分が利用されていることは、まだ幼いジュニアにも想像ができた。母には教会に行くと伝えている。父は絶対に秘密にしろと言い、ジュニアは口をつむぐと約束した。
 もとから二人はよく釣りに出掛けていた。よく行く湖は穴場で、日曜日でもほとんど人はいない。あるときフランクが捨てられた小舟を発見し修復してからは、毎週のように赴くようになった。周囲はなだらかな山に囲まれ、夕方になると稜線に引っかかった夕陽が水面を照らし、空の鏡のような景色が見られた。
 山道を直進し続けて車を適当な場所に停める。二人は釣具を抱えて舟に乗ると、湖の中心部にまで移動した。オールは重く、ジュニアはまだ触らせてもらえない。舟の舳先は水面を切り裂き、ゆるやかな波を立たせて前進していく。漕ぐたびに跳ねる水飛沫が、ジュニアの手の甲や額に当たった。二人は会話をあまりせず、互いに違う景色を望みながら、オールが水に深く差し込まれる音を静かに聴き入っていた。
 ジュニアはひと足先に魚をこの目で見てみたく、水底を覗こうと舟の縁に寄りかかると、シルクの布のように薄い波紋の内側で、自分とよく似た顔を発見した。暗く透き通り、父の漕ぐオールで幾分か揺れ動きながら、困惑した表情を直接伝える自分の顔。
「危ないから離れなさい」
フランクの声がして、すぐに彼は姿勢を正した。
 釣りが始まると、二人は背中を向け合いながら別々の方向へ釣り針を飛ばす。以前は同じ場所で大きなエビが釣れた。全然赤くないね、と父に言うと、ひどく笑われたこともある。今日は何が釣れるか分からないが、運の悪いときは何時間も粘っても一匹も釣れない。
「そういうときは、神様に祈るんだ」
フランクはそう言って釣具入れのなかから手のひらに収まるほどの十字架を取り出し、静かに祈り始めた。ふだんは神様を口にもしない父が、熱心に宗教家めいたことをしているのが、ジュニアには不思議だった。
 垂直に沈む釣り糸を見つめると、世界がずっと単純であるような気がしてくる。少なくともジュニアには、この湖の中心が世界の中心のように思えたし、自分たちの家庭も、本当はもっと糸のように真っ直ぐで不動なものだと信じられた。毎晩のように喧嘩ばかりしている父と母が、いずれ離婚するかもしれないという不安は常に存在し、さらにその危機に対し自分は何もすることができないというやるせなさも掛け合って、魚が釣れるのを待機する、この静止した時間で永遠を生き続けようと努力するしか、心の安らぐ瞬間はありえなくなっていた。
 いつものように太陽が濃い色を放ちながら山の輪郭へと隠れていく。オレンジのような色に湖全体が染まりはじめたころ、突然ジュニアの釣竿が大きく揺れた。
「釣れる!」
そう叫んだのち、彼は小さい体を存分に動かして思い切り竿を引っ張った。きっと大物だ。そう確信して、さらに力を込める。だがなかなか獲物は姿を見せてくれない。腕が疲れる前に、早く引き上げないと。いつもなら、すぐに父が助けに来てくれるはずだった。そうすればどんな大物でも手首を捻るだけですぐ吊り上げられる。そう思って彼は後ろを振り返ると、いつのまにか舟のうえには誰もいなくなっていた。父フランクは釣具だけを置いて、どこかへ消えている。
 驚いたジュニアは叫ぶかわりに飛び交う子虫を一匹だけ飲み込んでしまった。途端に脱力し、釣竿を手から離してしまう。獲物は再び水底のどこかへ消えていった。
 まだ揺れる舟でジュニアは座り込み、おそるおそる水面を見つめた。誰かが沈んだ様子も、浮いてくる様子も認められない。すでに暗くなりはじめていて、車を停めた位置もよく分からなくなりはじめている。自分の釣竿は手を離したときに落としてしまった。
 とにかくオールを持って岸辺へ戻ろうとしたが、まだ筋肉も発達していない細い腕で二本のオールを操作するのは困難だった。それでも持ち上げようと父の真似を試みるが、途中で腕が痺れて動かなくなってしまった。
 すぐに夜になる。揺れのおさまった舟だが、湖には潮流がないせいで、ずっと最初の位置からかわることがない。ジュニアは寝転がって星空を見つめる。遠くから鳥や狼の鳴き声が聞こえ、森の方を見ると、星のような光がちらちらと動いて回っている。なかにはこちらを見つめるような光も見えた。寒くて凍えるが、防寒具は何も持ってきていない。父の釣竿はまだ立てかけていて、糸の垂れる先端は、そのまま空へ飛んでいってしまうのかと思えるほど真っ直ぐに空を指していた。
 脇腹に痛みが走る。寝返ったとき、何かが刺さったんだ。ジュニアは左手で暗い舟の底をまさぐり、何かを見つけた。明かりがないから視力はうまく機能しないが、触ると父の使っていた十字架であることにすぐ気がついた。いったい何でできているのか、きっと少し力を込めればすぐに折れてしまいそうなほど脆い木材で作られている。
 空腹が募り、眠気が襲ってきた。どんどん気温は下がってくる。ジュニアは教会に行っていればよかったといまさら後悔していたが、彼が母を苦手な理由が、彼女といると自分は善人であると証明し続けないといけないからであることを思い出した。両親が最後に会話したのを見たのは、今朝二人が喧嘩しているときだった。
 舟のうえでうずくまりながら、ジュニアは折れるほど両手で強く十字架を握りしめ、生まれて初めて真剣に祈りはじめていた。
「神様、助けてください。神様、助けてください。神様、助けてください。寒いです。お腹が空きました…」

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