(創作)琥珀の家

 家と家のあいだを走る道路のうえで、一頭の犬が、肉をくわえていた。人はみな寝静まったころだ。街灯だけが青白い光で道を照らし、家々の窓は暗い影で覆われていた。湿った眼球を光らせながら、犬は怒りと満足感にひたっている。血で濡れた顎を上向きにし、犬はこれから向かう場所を探しているが、街ぜんたいが他人の侵入を拒むように、あたりのドアや窓は、すべて閉まりきっていた。ここに犬がいることを、誰も知らない。荒い息づかいは、誰の耳にも届かなかった。そしてしばらくすると、アスファルトに突き立てた爪をがりがりと鳴らして、犬は肉をくわえたまま、どこかへ走り去っていった。
 朝。靴が散らかったままの玄関には、光が落ちている。埃が舞っていた。その壁に寄りかかるようにして、長い棚がいくつも並んでいる。玄関から廊下を抜けて、リビングへと続く棚のなかには何が入っているのか、もはやこの家の住人でさえもはっきりとは覚えていない。棚のうえに並んでいるのは、色褪せた夫婦の写真だ。かつての風景と蜜月をとらえた写真には、どれも彼と彼女しか写っていない。子供はいなかった。
 いま目覚めたばかりの家は廃墟に似ていて、静かだった。過去の記憶ばかりが埋め尽くすこの空間は、現在から未来にかけて、ゆっくりと倦怠と虚無に落ち込んでいる。天井から床にかけて垂直に立つ壁に沿うのは、朝陽とその影だ。二色の境界は切り傷を刻むようにはっきりと部屋のなかを走っているが、いつか時間とともにコントラストも失われていくだろう。この建物がいまだ倒壊しない理由はただ、まだここに人が住んでいるという漠然とした事実によってだった。どうやら、この国の、この街には、最近同じような家が多いらしい。
 ようやく、妻のミツルが寝室から起きてきた。乱れた長髪が背中で揺れている。リビングへ続く階段を降りて洗面台へ向かうあいだ、表情は憂鬱だった。鏡に映った彼女の顔は、二十五歳のときよりも二十年分、老けていた。床に直接触れている両足は白くて、青い血管が何本か浮き出ている。見た目を最低限整えると、彼女の表情はすこしだけ落ち着いた。だが、それからも台所へ向かうあいだ、何か重いものを抱えているような、ぎこちない仕草が続いている。夫はまだ起きてこないと、時計の針を見ながら、漠として彼女は思った。大きなあくびをする。
 朝から彼女はキッチンでひき肉を作っていた。電動のミートミンサーに、手ごろな大きさに切った牛のロース肉を押し込む。まな板は赤くなって汚れていた。機械は金切り声を上げはじめた。白い腕に圧されて、肉塊は引きちぎられていく。キッチンを除いてすべてが静寂に満たされた早朝、彼女はひたすら沈黙していた。ミンサーから彼女の手元に、もはや原型をとどめていない、ミンチにされた肉がゆるやかに落ちてくる。たまに、数ミリの大きさの肉片が飛び散った。小虫のようにシンクにへばり付いている。このひき肉には血のにおいがしなかった。元は生きている牛だったことが想像できないほどだ。
 一頭の犬がミツルに近づいてきた。この雄のダルメシアンは、彼女の股の下から首を出し、赤い舌を垂らしてキッチンを見上げている。すでに十年も一緒に暮らしている飼い犬だが、白い毛並みとはけっして混ざらない黒色の斑点を全身にたたえたこの模様をじっと見ていると、眩暈に似た気分におちいる。黙りながら、彼女は機械に牛肉を抑え続けた。犬の唾液が、床に垂れている。ミンサーの音が部屋中に鳴り響いていた。
 夫のリクオは目覚めが悪い。酩酊しているかのような、不安定な足取りでリビングにやってきた。突き出た腹をさすりながら、目の端で妻をとらえる。そして何も言わず、イスに座った。テレビの電源を入れると、無表情で画面を眺め続ける。ミンサーの音がうるさいから、音量を上げた。ミツルは彼の存在を背中で感じ取っていた。だがあえて何も口に出さない。話す必要もなかった。彼女がすべきことは肉を調理すること、ただそれだけだった。キッチンの下にいた犬はふたりを交互に見たあと、ちょうど中間の位置に行き、そのまま座り込んだ。
 外が眩しいのか、彼は窓のカーテンをすべて閉めた。そして冷蔵庫を開けると、昨日の夕飯の残りを電子レンジで温めはじめる。ちょうどその頃、ミツルのミートミンサーが身震いをするような音を立てて止まった。電源を切ったからだ。このひき肉は何に使われるのか、彼には分からない。彼女が私的に味わうのかもしれないし、今晩彼もその出来を確認できるのかもしれなかった。だが、一瞥しただけで、彼はすぐ彼女から目を逸らした。温めた料理を無言で食べる。鯖の味噌煮と、卵かけご飯だ。ミツルはキッチンに立ったまま、夫の背中越しに見えるテレビをじっと眺めている。犬はいつのまにか眠っていた。
 ふたりの距離は一メートルほどだ。ひとりが一歩でも動けば、肩が触れるほど近いのにもかかわらず、けっしてふたりは互いに歩み寄ろうとはしなかった。すでに慣れきった家の、古いにおいをたたえた空気だけがこの距離感を埋め合わせている。夫婦が占めるわずかな面積のなかで、遠近法は歪んでいる。目の前の同居人ではなく、いまこの瞬間、テレビの天気予報がもっとも親しみやすい近さにあった。画面から、二人とも目を離そうとはしない。
 やがてリクオは食事が終わり、通勤する準備をはじめた。頭髪を整えて、高価なスーツを着る。だが現在の彼の体型のせいで、そのシルエットはハンプティ・ダンプティを連想させ、痩身のミツルと並ぶと、一種のおかしみを周囲に印象づけた。そして、その印象から、かれらはふたりを「お似合いの夫婦」だと錯覚した。リクオは黙って家を出る。そのとき、玄関のドアを閉める音はミツルの耳には届かなかった。もしかしたらはじめから外に通じるドアはなくて、いままで私はひとりでこの家に住み、たまに夫のまぼろしを見ていたのではないのか。ふと彼女はそう思った。
 家の前の、車の往来が増えはじめてきた。どの自動車もそれぞれに目的地があり、出発地点から到着地点までのはざまを走っている。外は十分に明るくなっていた。ミツルは窓から空を見上げる。快晴だった。次に向かいの家の二階を見つめると、そこには男がいる。双眼鏡で、彼女を覗いていた。彼女自身もそれを承知しているらしく、男を見て頷いた。男も頷く。わずか数秒のやり取りだったが、そのあいだに六台の車が道路を走っていった。
 河川敷では、人と人のあいだへ潜り込むようにして、強い風が吹き荒れていた。風に圧倒されて、通行人はみな前屈姿勢で歩いている。誰もがひとりで、倒れそうになっていた。ミツルも灰色のコートを着て、よろめきながら、犬を散歩させていた。厚着をしているのにもかかわらず、冷たい風は服の隙間に滑り込み、彼女の肌に貼り付いてくる。そのせいか、彼女は犬のリードをいつもより強く握っていた。そして犬も、ときおり勇み足を止めて背後を振り返り、彼女を見つめていた。風が両耳をふさぎ、遠くの声や音は何も聞こえない。はやく家に帰りたい、そう思いながら彼女は次のもうひとつの目的のために歩き続けた。
 ベンチに男が座っている。さっき双眼鏡で向かいの家を覗いていた男だ。近づいてくるミツルを見つけると、細い目をさらに細め、片頬を痙攣させるように微笑していた。膝の上に置いていた両手を、黒いジャケットのポケットに隠す。遠くからはそのようすが、風景に溶け込めなかった小さな「染み」のように見えた。夏にはきっと青く繁っていたはずのヨシ原が、枯れた穂先で宙を掻きながら、風にあおられて一斉に揺れている。
 ミツルが犬を連れて、男の前に立つ。次の行動に移るまでの二十三秒間、ふたりは無言のまま互いの顔を眺めたままだった。
「何か言いたそうですね」
男は言った。
「それは私が言うセリフでしょ」
ミツルは芝居がかったやりとりに辟易している。
「私はもうこれ以上続けたくない」
風に吹かれて顔を隠していた髪の毛を退かすと、ミツルはそうつぶやいた。
「ミツルさんが決めることじゃないですよ」
男はまた微笑する。今度は首を少し前に突き出していた。
目線の高さは、彼女の方が上だった。だが彼女が彼を見下げることで、凍えそうな彼女の顔はさらに伏し目になっているようだ。
 細い指をポーチに入れて、分厚い封筒を取り出す。彼女の爪には赤いマニキュアが塗られていた。男に封筒を差し出す。
「念入りに数えたから、間違えてないからね」
「分かってますよ」
両手で丁寧そうに受け取って、男は持ってきた黒い鞄を開けた。
「僕だってあなたとは親密な関係でい続けたい」
返事を待っているかのようにそのあと沈黙したが、結局彼女は何も言わなかった。
「物事にはいつか終わりが来る。けど、終わるまでは続くんです。そうでしょう」
鞄のチャックを閉める。
「あなたはこれを終わらせたい。僕は続けたい。けどこの思惑は常に裏側で繋がってるんです」
「どういうこと」
彼女の声を聴くと、安心したように男は歯並びの良い口元を見せた。
「最近、リクオさんとはどうなんですか」
「それがなんなの」
「あなた方夫婦の問題は、僕の問題でもありますから」
 男はゆっくりと立ち上がって、ミツルの肩に手をかけた。もう片方の手は、何かを掴んだように、強く握られている。
「どうです。今度、お会いしませんか。予定外で。僕がお金を出しますよ」
耳に息がかかるほど、男は顔を彼女に近づけた。偶然、ふたりの周囲には誰もいない。肩に触れていた手を、男はだんだんと彼女の指先へ滑らせていく。その動きは、蛇を連想させた。
 犬が吠えた。男はいったん静止する。意識の外から侵入してきた音に驚いた二人の頭には、一瞬だけ余白が生まれたようだった。かれらを睨み、犬はうなり続けている。このままだと男は噛みつかれかねない。危険を感じた彼は、ゆっくりと手を退けると、鞄を片手で抱えて、無言のまま立ち去って行った。空は青く、河川敷から土手へ階段で登っていく男は、まるで地平線の見えない闇の向こうへと帰っていくようだった。ミツルは置いていかれた。
 都心の小さな映画館からリクオは出てきた。その腕には同年代の、華奢な体つきの女の手が絡んでいる。すでに日は暮れはじめていて、ふたりは親密そうに笑顔を見せあっている。足取りは不自然なほど弾んでいた。
「映画、退屈だったね」
「やっぱり、80年代の恋愛映画は合わないよ」
ふた言、ぼそりと彼は呟いた。
「私は楽しかったけど。あの手の話は嘘っぽいから好き」
彼の方を見ながら女は言った。
「そういえば、今日、ミツルさんには何て言ったの」
「大したことじゃないよ、仕事だって言ってきた」
歩道の先を女は見据える。横断歩道を渡ると、雑踏は激しくなった。
「それは分かるけど、最近仕事を理由に私と会ってばっかりでしょ」
リクオは一瞬だけ不機嫌そうな顔をしたが、すぐもとの表情に戻る。
「大丈夫」
 彼は女の横顔を見た。すれ違った他人と肩がぶつかる。だが気にせず歩き続けた。
「そっちこそ、何て言い訳したんだ」
「言い訳なんてしてないの」
女は確かな足取りで道を歩いている。女が、彼を引っ張っているように見えた。
「うちの旦那、干渉しないから。そういうの」
彼の筋肉質ではない腕に、女は頬を寄せる。なぜか、恋人にありがちな甘い雰囲気はまったくなかった。
「家にいて楽しいか?」
彼は言った。
「楽しい?」
もう一度言う。一度、女は彼の目を覗いたが、やわらかく微笑むだけで何も応えなかった。
 そういえば、と思い出したかのように女は飼っている猫の写真を彼に見せつけた。昨日撮ったものらしい。写真のなかで、猫以外の動物や人物は不在だ。
「なんだか、写真を見てる俺に媚びてるみたいだ」
女は鼻を鳴らして笑う。
「気のせいだよ」
二人はまた歩きだした。空はまだ明るかったが、街のネオンや街灯はすでに明るくなりはじめていた。いずれ夜になれば、街の人々を照らすだろうという予感をあらわすように、ふるえる黄色い光は、空に小さく浮いていた。
 ミツルとリクオの住む家に、まだなにもなかったころ、壁紙にわずかな糊のにおいが残っていたころ、窓の下の階段が、差してきた日光をするどく反射させていたころ、二人はまだ若かった。リクオはまだ青年らしさの余韻を体に刻んでいて、しぐさのすべてが活発だった。ミツルは両耳があらわになるほどの短髪で、デミ・ムーアを意識している、と周囲によく話していた。新居を訪れた彼女は、指先で自分の体をあちこち神経質そうに触れている。
 彼女のそばで、リクオはキャビネットを組み立てていた。彼は敷物もまだ用意されていないフローリングのうえで、ときどきうなり声を上げながら、窮屈そうに座っている。太い腕を器用に動かして、ネジを締めたり、外したり、説明書を睨みながら何度も試行錯誤を続けていた。
 それできたら、私のうしろの壁に置いてね。リクオにスポーツドリンクを差し出して、彼女は言った。立ち上がり、腰をかがめて、彼を見下ろしている。振り向いた彼は一度、頷いた。
 白い壁の一隅にすでに飾られているのは、サバンナの動物たちの写真を載せたカレンダーだ。今月のスケジュールが赤字で書き込まれているうえには、ガゼルとアヌビスヒヒが紹介されている。この二種類の動物は共存関係にあった。ガゼルは外敵の接近をヒヒの鳴き声で感知することができた。また、ヒヒは飢えると、ときおりガゼルを捕食していた。だが、写真のなかではただ互いに接近し、遠くを見つめているだけだ。外敵の予感も、空腹のようすも見られない。一匹と一頭の哺乳類は、たしかに静止していた。
 リクオが立ち上がり、玄関へ向かう。外へ荷物を取りに行ったらしい。キャビネットは完成していて、指定された位置に配置されていた。ミツルはしばらく体を倒し、背中で新築の住居に触れている。肩甲骨を通じて、床の硬さが伝わってくる。天井は壁と同じで白く、長いあいだ見つめていると、つい自分がどこにもいない、何者でもない人間のように思えた。だがその思いも、リクオの若々しい声でかき消える。
 玄関が開かない、と彼は言った。何度試しても開かないんだ。ほとんど反射的に彼女は彼のもとへ向かった。素足で歩く、ぺたぺたという軽い音だけが響く。
 ドアは開かなかった。唖然として、二人は玄関に立ち尽くす。その気になれば窓から外出はできるだろう。だが、不可解な理由で閉じたままのドアの前にいると、蒸気のような、言い知れない不安が頭上へ噴き出してくる。押しても、引いても、それは決して開くことがなかった。二人は同時に、玄関の上り框にしゃがみこむ。そして、ゆっくりと体をうしろに倒した。
 ねえ、これからどうする。そりゃ、業者に連絡しないと。そうだね。夫婦はひとり言のように話す。少しだけ、足のつま先が触れ合っていたが、すぐ離れる。いつまで、開かないんだろうね。しばらくかな。そっか。自動車やバイク、子供たちの声が聞こえて、家の外は大袈裟なほどうるさかった。だが二人はいつしか騒がしさに抗うように、ゆっくりと萎む風船のように、口数を徐々に減らしていく。そして完全な静けさが屋内を支配したとき、すでに日は沈んでいた。
 リクオが外出から帰ってきても、ミツルは何も言わずに夕飯の支度をし続けた。中年の夫婦が囲む食卓に、華やかな雰囲気はない。ただ、今日から明日までの、あいまいなモラトリアムな時間だけが横たわっているだけだ。食器がものに触れるときだけ、この場に音楽的な修飾が与えられるが、響きはいつも悲壮で、なによりも単純だった。
「今度、外出する予定はないか」
ようやくミツルの方を見て、リクオが話しかけた。
「ない」
即答だった。彼女はすぐに黙る。それを聞いた彼も、小さく頷いてから、また何も言わなくなった。
 しばらく時間が経った。会話がすぐに終わっても、わだかまりが二人のあいだに残っているようだった。
「何が言いたかったの、さっき」
箸をテーブルに並べながら、彼女はつぶやいた。返答に少し時間がかかる。
「何も」
直後に大きなため息が漏れた。彼はうつむいて、調べ上げるように自分の指先を触りはじめる。
「私と一緒にいたくないの」
「そうは言ってないよ」
「じゃあ本当に何」
彼は寡黙を装っている。彼女の目には、こういうときの夫がひどく小さく見えた。代わりに自分の図体がやけに大きく思えてくる一方、この家も縮んだみたいだった。陶器の皿を握り振り回そうとするところを、なんとか自制する。窮屈そうに体の筋を伸ばした。
 ようやく顔を上げて、彼が唇をうごめかした。
「二人で出かけようと考えてたから、お前に予定があるか訊いたんだ」
さっきまでの態度を裏返したかのように、目つきはするどく、はっきりとしていた。だが彼女の怒りは余計に増しているようだ。
「じゃあ出かけようよ。今度の土曜日に」
長めの前髪を触りながら、ゆっくりと言い放つ。
「どう」
彼は小さく首を横に振った。そしてもう一度振る。
「だめだ」
「その日は行けないよ」
再び、うつむいた。
「じゃあ日曜日」
「だめだ」
「結局嘘じゃん」
配膳はすでに終わっていた。テーブルの上にはカレーライスとサラダが置かれているが、二人とも食べようとはしない。立ちのぼる白い湯気は上昇するにつれて見えなくなっていった。
「嘘じゃない。本当だよ」
 リクオが口を開いた瞬間、ミツルはグラスを掴んで彼の顔にかけた。予想外の出来事だったのか、口を開いたまま彼は瞼を閉じて、濡れた顔を停止させる。グラスを放した彼女は、頬を引き攣らせながら下を向いた。犬がリビングにやってくると、床にこぼれた水を舐めはじめた。湿った舌が擦れる音が、部屋のなかで小さく聞こえた。両手で顔を拭った彼は、一度だけ非難の目で彼女を見たが、また顔をそらし、何も言わなくなった。犬は涎と混じった水を舐め続ける。
 太陽はもっとも深い場所まで沈んでいった。地上は夜ごと眠っている。灯りがすべて消えた家は、暗い深海のなかで溶けているように見えた。側溝のなかから這いでたゴキブリが、棲家を見つけるため、泳ぐようにして走っている。どこからか流行りの音楽が流れているが、まるで息を潜めるように、次第に聴こえなくなり、ついにはどこも沈黙してしまう。星や月を見ることができない曇り空は、このあとの悪天候を予感させたが、ただひとつ、航空機の赤い光だけが点滅している。
 女が走っていた。くるぶしまで届いた寝間着の裾から、白い足が何度もあらわれた。両腕は大きく振り回されている。着物は夜の空気に洗われて、女の体とともに揺れていた。何かを掴みかけては、また放してしまうように、両手の指は鉤状に曲げられている。アスファルトのひびにつまずいて倒れると、打撲した顔をゆっくりと起き上げ、涙と血を顎に滴らせながら再び走り回る。落ち着きが完全に失われていたが、それは間違いなく、リクオが連れ添っていた女だった。
 猫がいないことに、女が気がついたのは就寝前だった。いつも必ず夜には帰ってくるはずの愛猫が見えないことに、彼女とその夫は不安をおぼえていた。そして、いつしか待つことに疲れた女は、家を飛び出て捜索をはじめた。赤や、黒や、栗色の毛を、描き殴られた地図のように生やした女の猫。女はその口の中を眺めるのが好きだった。毛に覆われた顎が割れて、鋭い歯と赤黒い口内を見つめると、通い慣れた道で、いつもは存在しないはずの何かを見つけるような、見知らぬときめきと、内臓が見える。
 すでに枯れていた声を何度も裏返しながら、女は叫び続ける。しかし体力はすぐに底をつき、女の体のなかでこもるような、はかない音が響くだけだった。アスファルトのうえに膝を置くと、そのまま顔を覆ってすすり泣く。夜明けが間近に迫った暗闇は、磨き上げられたように、いっさいの曇りがない世界を充満させている。ここで女はひとりぼっちだ。街そのものが女の家だったかのように、猫の不在は、女を取り囲む巨大な事件だった。
 ようやく太陽が昇り、にぶい光が窓から差してきた。ミツルは玄関のドアの前、靴が不自然なほど整頓された土間に、まったく動かないダルメシアンを見つけた。それは、何かを待機しつつ、すでに別の何かをやり遂げたあとのようだった。昨日まで毎朝、自分自身が通っていた足跡を辿るように、彼女はゆっくりと犬に近づいていく。歩くなかで壁に触れると、けっして滑らかでない感覚が指先に対する抵抗として伝わってくる。爪で引っ掻くと、重い音がした。頭が少しずつ醒め、瞼が開かれていく。
 土間には、斑点のような、血液のしずくがいくつも散らばっていた。見知らぬ犬か猫の首輪が、痛めつけられた状態で放り投げられている。犬の荒い呼吸が続くあいだも、雨上がりのあとも屋根からこぼれる雨滴のように、血は犬の鋭い歯の隙間を通って落下していた。この異常を除けば、すべてはいつも通りの朝だ。
 向かいの家では、双眼鏡から彼女たちを覗く男がいる。特別な何かを監視しているのではない。見るべきものが現れるのを待っているだけだ。目を開き続ければ、見逃すことは決してない。彼の目線は、ほとんど動物的だった。
 男は双眼鏡から目を離す。そして指をさして彼の妻を呼んだ。ベランダの奥、窓のなかで揺れるカーテンの向こうにいる妻に、彼は何かを話しかけながら、再び双眼鏡を顔にあてた。その傍で、妻は電話をかけはじめる。すぐ近くから、砕けかかったアスファルトを補装する、作業員たちの話し声が聞こえた。
 雨雲は、河川敷にあるものすべてを踏み潰そうと、空いっぱいに広がっている。真空の瓶のなかにいるかのように、ミツルは息苦しそうな顔をしていた。一緒に連れている犬は、ときおり意味もなく体を激しくふるわせる。首を繋げるリードの息苦しさを感じることに、反対の、居心地の良さをおぼえているようだった。きっと雨が降るに違いないという確信をいだいて見る景色は、いつもと異なって、たったひとつの言葉を彼女たちに投げかけてくれていると空想するが、それが一体どのようなものなのか、別の言葉で説明することはできなかった。
 今朝は近所の住人をひとりも見かけない。どこかへ逃亡したように、わずかに揺れる人の影すら存在しなかった。ただ、河川敷に生える雑草と、立体的な人工物の面積だけが、空を除いたあらゆる場所を占拠している。いつものように男の待つベンチにミツルが来ると、そこには見慣れない二人がいた。男は先日と同じ格好で、同じ黒い鞄を大切そうに抱いていた。彼女の到着に気づくと、無感動を演じながら、ゆっくりと立ち上がる。
「この女性はご存知?」
男は口笛を吹くようにして喋りだした。
「うちの妻ですよ。会うのははじめてですかね」
ミツルは動揺を隠しきれないが、この混乱はむしろ、目の前の見知らぬ女ではなく、その背後のベンチでいまだにうずくまるように座っている、自分の夫に原因があった。リクオは今日、仕事に行っているはずだった。ダークスーツと泥で汚れた革靴に包まれた体は、反対に彼をプラスチックでできた安物の人形のように飾っている。
「今日は件の話とは別で、お訊ねしたいことがありまして、夫婦二人揃ったわけです。ミツルさんは構いませんよね」
「構うも何も」
 開きかけた彼女の口を塞ぐように、男は話し続ける。
「僕にとって結局いちばん信頼できるのは妻だけでしてね。妻も同様です。婚姻関係というのは紙切れ一枚で成立しますが、二人の生活上の利害さえ一致していれば、『血』なんていう抽象的な代物でしか互いの情を確認しあえない血縁関係よりもずっと強固な契約なんですよ」
そして隣の女の肩を抱えて、彼は自分の方に引き寄せる。
「そしてこの場合の利害というのは、現に経済的でしかない。僕たちの関係はある意味でクリアです。金と愛が同じというわけではない。夫婦の愛そのものが経済なんです。だからここに来た」
男は恍惚としながら喋っていた。彼女には、この演説がまるで異言語を話す、異民族によるもののように感じられる。
「そうだ」
そう言って男は座り込んだリクオの顔を覗いた。
「リクオさん、来てますよ」
名前を呼ばれて、リクオは男の方を落ち着かない目で捉えた。そして、すぐに近くの女の顔を見て、そのあとミツルに向かって首を小さく振った。
「妻の人間関係には口を出さない主義なんですけど、リクオさんと彼女のあいだで何かあったようで」
リクオは、いまにも凍えそうな身振りで腕を組み、片足を上下に、ゆっくりとゆすっていた。
 何も言わないまま、彼女はポーチから取り出した封筒を男に渡そうとする。時間が流れるように、彼女の腕も滑るように伸びていった。河の水位は、短時間でかなり上がっていた。降りはじめた雨が、肌の上へ点描をするように落ちてくる。犬はリードを弛ませながら、彼女の足元を半周し、男の方をじっと睨んでいた。
「うちの猫が、いないんだ」
 封筒を無視して、男はつぶやいた。目を伏せていた彼女が顔を上げると、そこにはグラント・ウッドの絵画に似た夫婦が、正面を見据えながら立っているだけだ。
「知らない」
直前に玄関で目撃したものを想起しながら、なかば冷静さを装って、彼女は応えた。
 封筒を持った腕を、男は素早く握る。隣の女は、爪を噛んでいた。
「どうなんだ」
彼女は足を一歩引くが、強い力で掴む手を解くことはできない。腕を何度も振りまわすが、紙でできた封筒にしわができるだけだった。乱れる髪とともに、息遣いは荒くなる。
 ミツルは叫び声を一瞬だけ出した。何者かに救助を求めたわけではない。錯乱したわけでもない。ただ、拒否の意思を声で伝えようとしただけだ。だが、その声もすぐに中断させられる。男ははじめ、太い骨と血管の浮きでた手で彼女の口を塞ごうとした。手のひらの、小指の付け根が彼女の唇に触れたとき、運動の方向が変わる。男は、差し出した手を今度は大きく振りかざした。強引にオールを引いて波のうえのボートを進めるように、彼は彼の片腕を、目いっぱいに広げて、彼女の頬に向かって叩きつけた。直後、彼女は全身の穴が塞がった気がした。
 男の手は左目の下に命中し、続いて爪が鼻の先を引っ掻く。紙袋を潰すような快い音は鳴らず、ただ骨と骨が皮膚を重ねてぶつかる感触だけがあとに残った。
「どうなんだ」
同じ言葉を聞いた。そして、また男の手のひらが飛んでくる。彼女は、遊び慣れない子供のように、ぎこちない姿勢で打擲をされるしかなかった。
 リクオは二人をベンチに座りながら眺めていた。何度も立ちあがろうとしたが、自分とミツルたちのあいだには、あの女が壁のように立っている。気がつくと、彼の革靴のつま先を乗り越えて、何十匹もの蟻の行列が続いていた。直接触れてはいないのに、くすぐったく感じた。小さな行軍はベンチの下をくぐり、雑草の影の中へと消えていく。激しさを増す雨のなか、妻の危機に立ち会っている男は、ただひとり蟻に集中している。深呼吸のように重く響く衝動を、彼は蟻たちに拘束されていた。
 雨は悪意をこめて、同じ瞬間を繰り返しながら降り続ける。濡れた服はそのまま拘束具となって、各々の自由を奪っていった。そこには最小の単位も、集合も存在しない。河川敷にかぎって言えば、水と泥だけが呼吸をしていた。釣竿を持った男が歩いてくる。今日の収穫は諦めたようだ。竿に巻かれた釣り糸の先で、針は寂しそうに揺れている。
 何かが男の片脚に絡みついた。直後、彼は苦悶の表情を浮かべて地面に倒れ込む。そしてその鼻に犬が齧りついた。ミツルは一瞬何が起こったのか理解ができなかったが、男と犬のうなり声を聞くうちに、なんとなく状況を理解できた。彼の全身に噛みつく犬のリードを持って、彼女は走りだす。犬の逃げ足の方が速かった。彼女は逆に犬に引かれるようにして、河川敷の強風のなかを駆けていった。血流が速くなって、頭ががんがんしている。走りながら鼻頭を手の甲で拭う。血液がべっとりと付着していた。顔のどこから流れたかは分からないが、すべてミツルの血なのはたしかだった。そして、雨と風がそれをすべて洗い流していく。
 リクオもようやく走りだした。まだ河川敷に取り残されたままの夫婦を置き去りにして、犬、ミツル、リクオはそれぞれ間隔を空けて疾走する。向かい場所は自分たちの家だけだった。かれらは声も上げず、ただ前だけを見ていた。ただ、並ぶ順番によって、正面に映る景色は全然違うはずだ。水溜りを踏みつけ、跳ねた泥は四方に飛び散っていった。あの夫婦はまだ追ってこなかった。
 ドアを思いきり開くと、ミツルとリクオは勢いよく玄関に入った。鍵を閉めると、そのまま廊下に倒れ込んだ。犬はいつのまにかいなくなっている。二人が横並びになるには少し窮屈な、幅の狭い廊下だ。二人の上着から流れる雨水が、床へ浸みていく。リクオは寝そべったまま、同じく横になっているミツルに訊く。
「ぜんぶ知ってたか」
彼女は苦い薬を飲み込むように、何かを信じるように、自信はなさそうに、小さく頷いた。水を吸って重くなった靴下を丸めて放り投げると、着地して潰れるような音を出した。
 最後に二人が一緒になって出かけたのは一年前だった。いつからこの夫婦の仲が険悪になったのかは誰も分からない。しかし、この頃にはすでに一緒に休日を過ごすだけで、落ち着かない雰囲気のまま翌朝を迎えるようになっていた。そしてその日の外出も例外ではなく、帰宅する途中、走る自動車のなかで喧嘩が始まった。きっかけはリクオが飲酒をしてしまい、そのせいでミツルが慣れない運転をしなければならなかったことだった。
 カーヴをしたり、揺れたり、車は迷路から抜け出すように夜道を走っている。だが色彩を失った街をずっと進んでいるせいで、自分たちがいまどこにいるのか、永遠にあいまいなままだった。空から落ちた星のような光の下で佇んで、口論する二人を眺めている人の影の前を通り過ぎる。
 自動車の速度がどんどん増していることに、ミツルは気がついていた。だが、ハンドルを握っている実感と、何もせずただ座っているだけの夫に対する苛立ちは、たとえば海中に沈みゆく人間が、水面そのものを掴もうとするように、彼女をヘッドランプで照らされる車道よりも先の、暗い部分に突進させていく。車内は、互いへ向けられたあらゆる罵倒で満ちていた。ハンドルに両手の指を絡ませながら、彼女は後部座席を見た。
 わずかな時間しか経っていなかった。だが二人が自動車から降りて後方を確認したとき、すでにその向こうでは、見知らぬ他人が倒れていた。モノクロの戦争写真で見た死体と、ポーズがよく似ている。血のにおいはしなかったが、ミツルは隣で立つリクオの汗を、鼻で感じとっていた。呼吸を止めて、これが現実であることを確かめたとき、直前まで喧騒が支配していた夫婦のあいだには、沈黙と静止した空間しか存在しなかった。それとは反対に、死体のある周辺すべては、ゆっくりと時間が流れはじめる。
 遠くで動物の鳴き声がした。どこかの家の飼い犬だろうか。そしてそれを契機として二人は再び自動車に乗り込み、発進させる。動きはじめた時間に遅れを取らないように、そして追い越し、追い抜かれないために、夫婦はひとつの冷たい鉄の塊となって、住み慣れた家に向かっていった。
 一部始終がなぜあの男に知られていたのか分からない。だが、あの男が双眼鏡を通して見る世界は、あらゆる男女の不幸を捉えているようだった。
 ようやく呼吸を整えたミツルとリクオは、互いの顔を見つめあった。事件は過去のものだが、いまでもそれは彼女と彼を背後から常に追っている。だが、もう逃げ切れそうにない。
「謝らないの?」
ミツルは言った。不機嫌な顔をして、リクオは謝った。
「で、どうするの」
ミツルは訊く。
「分からない」
彼の声は、すでに聞き取れないほど小さくなっていた。
「外に出られる?」
「分からない」
ドアの外で、砂利の付いた靴が地面を擦る音が聞こえた。そして聴き慣れた話し声もする。
「これからどうするの」
ミツルは質問しかしなかった。眼差しはずっと夫に向けられている。
「どうにかするしかないでしょう」
リクオも、妻を見つめ続けていた。大きなため息をつく。
「二人で、どうにかするしかないんだね」
「そうだね」
外部からの侵入が予感されるなか、夫婦はたしかに、頷きあった。ドアは勢いよくノックされる。インターホンは何度も鳴らされる。
 玄関へと続くドアが開かれると、なかからミツルとリクオが顔を出した。男と、それに付き添う女は息を切らして、二人を睨みつけた。男の顔からは血が流れている。入って、とミツルは言った。穏やかな迎え入れられかたに戸惑いながら、男と女は夫婦の家へと入っていく。まだ外は明るいせいか、家のなかは全体的に暗いトーンが支配している。だから、かれらは動物のあなぐらへ侵入していくようにも見えた。廊下には、棚のうえに大量の写真が並べられていて、そのなかの笑顔はすべてかれらへ向けられていた。男は、いつになく背中を丸めている。靴下には穴が空いていた。
 そのあと、ミツルとリクオは忽然と姿を消した。近所ではいろいろな噂が流れたが、その向かいの家の住人も蒸発していることが分かるのは、ずっとあとになってからのことだった。少し時間が経つと、通り過ぎるだけでカビのにおいさえ嗅ぎとれるほど、残された家は急速に老朽化していった。もはや、記憶は、記憶されることすらなかった。しばらくすれば、廃墟は取り壊されて、別の家族が住むことになるだろう。そのときこそ、この土地に根付いたあらゆる残渣は一掃されるはずだ。
 だが、ごくたまに、深夜の路上で、あの夫婦が飼っていたダルメシアンが、痩せた体をふるわせながら徘徊しているすがたを目撃する者もいた。だがそれも、心霊現象と似た単なる錯覚に過ぎないし、むしろその証言自体が、住人が完全に消失し、二度と戻ってくることがないという確信を、揺るぎないものにしていた。いずれにせよ、夫婦が目撃されていないのであれば、いまだに、どこかで一緒に暮らしているという可能性は、誰も否定できないことだった。


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