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どう生きるか、という問い

どう生きるか。

ものすごく難しい問い。でも誰もが向き合う問い。自分が向き合ったこの問いに対する答えは自分がこの世からいなくなってからしかわからない。

私の父親は私が小学5年生のときに亡くなった。沢山怒られて沢山手を出された記憶の方が多いけども、写真やホームビデオを見ると楽しい記憶も思い出される。
毎日、目まぐるしく過ぎていく時のなかで新しく入ってくる記憶から私と父親の思い出を守るのに必死だ。それほどまでに約10年という月日は長く感じる。

2ヶ月前に父親の十三回忌があった。そこには私達親族の他に1人だけ中学校からの友人だという人もいた。法要後、参列者全員と食事する場があり、そこでその人から「大きくなったね。」と声をかけられた。私はその人が誰かわからなかったけど相手は私のことを知っていたらしい。それから、私が小さいときによく遊びに連れて行ってもらった話、父親とその友達の仲良くなるきっかけやいろいろな遊びをした話しを聞いた。そして最後に父に対して「ありがとうな。」ということばを誰にも聞こえないような声で呟いていた。

父親ってすごいなと思った。というかいろいろ感じるものはあったがうまく言い表せない。亡くなって10年以上経つのに遠くから参列してくれる友達がいることもそうだし、そんなに仲間想いなところもあったんだなとか私に対する愛もその人の話を聞いて感じた。

これが父親の生き方に触れた瞬間。

この間も国民的コメディアンが亡くなった。そんなにその人の番組を見るということはなかったが私でもその人のギャグを知っていた。それほどまでに国民に根付いたコメディアンなんだなとニュースを見て思った。

亡くなってからもよくテレビで見かける有名人が涙を流しながらコメントしたり、SNSではその人を惜しむ声や感謝の声が沢山見られた。

これが少しその人の生き方に触れた瞬間。

どちらも異なった生き方だけれどもどちらの生き方が正しいとかはないはずだし、たぶん2人ともこのように生きたいと想って生きていた訳ではない。だから、普段からどう生きるかについて考えることにどれほど意味があるのかはわからない。けれど、人の一生が終わりその人の生き方に触れる度に考えさせられる。

ふと、どう生きるかというイメージを持って生きると少しは普段の行動が変わったりするのかなと思ったりもする。

だから意味があるかはわからないけれど私が亡くなっても周りが笑顔で過ごせるようになっていたらいいな、と想い私は今日も過ごしていく。

2020.04.02

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