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『彼岸過迄』を読む 16 二次元オタクとしての須永市蔵

 今からたしか一年ぐらい前の話だと思う。何しろ市蔵がまだ学校を出ない時の話だが、ある日偶然やって来て、ちょっと挨拶をしたぎりすぐどこかへ見えなくなった事がある。その時僕はある人に頼まれて、書斎で日本の活花の歴史を調べていた。僕は調べものの方に気を取られて、彼の顔を出した時、やあとただふり返っただけであったが、それでも彼の血色がはなはだ勝れないのを苦にして、仕事の区切がつくや否や彼を探しに書斎を出た。彼は妻とも仲が善かったので、あるいは茶の間で話でもしている事かと思ったら、そこにも姿は見えなかった。妻に聞くと子供の部屋だろうというので、縁伝いに戸を開けると、彼は咲子の机の前に坐って、女の雑誌の口絵に出ている、ある美人の写真を眺めていた。その時彼は僕を顧みて、今こういう美人を発見して、先刻から十分ばかり相対しているところだと告げた。彼はその顔が眼の前にある間、頭の中の苦痛を忘れて自ずから愉快になるのだそうである。僕はさっそくどこの何者の令嬢かと尋ねた。すると不思議にも彼は写真の下に書いてある女の名前をまだ読まずにいた。僕は彼を迂闊だと云った。それほど気に入った顔ならなぜ名前から先に頭に入れないかと尋ねた。時と場合によれば、細君として申し受ける事も不可能でないと僕は思ったからである。しかるに彼はまた何の必要があって姓名や住所を記憶するかと云った風の眼使いをして僕の注意を怪しんだ。
 つまり僕は飽くまでも写真を実物の代表として眺め、彼は写真をただの写真として眺めていたのである。もし写真の背後に、本当の位置や身分や教育や性情がつけ加わって、紙の上の肖像を活しにかかったなら、彼はかえって気に入ったその顔まで併せて打ち棄ててしまったかも知れない。これが市蔵の僕と根本的に違うところである。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 松本恒三に似たと言われる須永市蔵の性格について、どういう了見か松本恒三自身が明確に分析した場面がここである。

 松本恒三は写真を実物の代表として眺め、一方須永市蔵は写真をただの写真として眺める。写真を写真としてしか眺めることのできない男。完全に現実逃避している。これでは須永市蔵はまるで二次元オタクである。二十五歳にもなる男が美人の写真を写真として「十分ばかり相対している」……いかにも時間が長すぎ、「相対」という言葉が引っかかる。

 まず現代人にとって「十分」はいかにも長い。TikTokや倍速視聴に馴れた世代にとって、地上波や能、浄瑠璃などはいかにも退屈なものだろう。

 そこに「相対」という表現が加えられた時、私はつい須永市蔵の身体性について考えてしまう。田川敬太郎は頑丈な体を与えられている。痩せていた森本からも体を褒められる。身体は資本だ。

 千代子は「身体の発育が尋常より遥かに好い」と体格の良い田川敬太郎からも認められている。また「背が高いので、手足も人尋常より恰好よく伸びたところを、彼は快よく始めから眺めた」とも描写される。

 田口要作は「瘠せた高い身体をしばらく佇まして」とあるから背が高い。田川敬太郎基準で見て、長身なのだ。別の場面で、「叔父は肥った身体を持ち扱かって、団扇をしきりにばたばた云わした」ともあるので痩せているか太っているか曖昧だが、とりあえず背は大きいとしておこう。

 須永の母は又「背の高い面長の下町風に品のある婦人であった」とされる。

 松本恒三は「顔の面長い背の高い、瘠せぎすの紳士で」と田川敬太郎からは見られる。「男は背が高いので後から見ると、ちょっと西洋人のように思われた」とも描写される。

 一方須永市蔵は気が弱く、嫉妬心が強く、癇癪持ちで、体は弱い。「生れてからまだ玉突という遊戯を試みた事がなかった」「彼らは第一に僕の弱々しい体格と僕の蒼白い顔色とを婿むことして肯わないつもりらしかった」とある。

 夏目漱石作品の登場人物の体格と性格の関係で言えば、須永市蔵の身長は高くないと考えられる。

 欠点でも母と共に具えているなら僕は大変嬉しかった。長所でも母になくって僕だけ有っているとはなはだ不愉快になった。そのうちで僕の最も気になるのは、僕の顔が父にだけ似て、母とはまるで縁のない眼鼻立にでき上っている事であった。僕は今でも鏡を見るたびに、器量が落ちても構わないから、もっと母の人相を多量に受け継いでおいたら、母の子らしくってさぞ心持が好いだろうと思う。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 出生の秘密を知った後で読むと、この下りはいかにも痛々しい。彼は自分の顔にさえ己惚れることが出来ないのだ。これでは身体性に重きを置くことが出来ない。

 写真を実物の代表としてではなくただの写真として眺める、身体性のない写真と「相対」する市蔵は、身体性を喪失することによってのみ安らぎを得られたのではなかろうか。

 したがって詩とか哲学とかいう文字も、月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして、ほとんど一顧に価しないくらいに見限っていた。その上彼は理窟が大嫌いであった。右か左へ自分の身体を動かし得ないただの理窟は、いくら旨くできても彼には用のない贋造紙幣と同じ物であった。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 この田川敬太郎の見立てはいかにも厳しい。確かに気が弱く、嫉妬心が強く、癇癪持ちで、体は小さく弱く、青白いニートの須永市蔵はいくら高等教育を受けたとはいえただの贋造紙幣に過ぎない。「身体の発育が尋常より遥かに好」く「背が高いので、手足も人尋常より恰好よく伸びた」千代子には見た目から釣り合わないだろう。

 執筆当時体が弱り痩せこけていた漱石は、まず体の頑丈な青年、田川敬太郎を物語の冒頭に置いた。身体というものの大切さが身に染みていたからであろう。しかし漱石は贋造紙幣とは言いながらも気が弱く、嫉妬心が強く、癇癪持ちで、体は小さく弱く、青白いニートの須永市蔵に真善美の理想を与えてもいたのではないか。

 よくよく読めば『こころ』の先生には罪はない。Kは先生の気持ちをある程度察しており、その上で出し抜いたということがほぼ明らかだ。

 そんなことが何処に書いてあるのかと言えば、

 ここに書いてある。なんだただじゃないのかふざけるなと思った人、

 こんな感じの宇宙人になっていませんか?

 須永市蔵の咎も本来は須永市蔵の咎ではない。しかしひっそりと暮らす須永親子を『こころ』の先生のように全肯定してくれるキャラクターはいない。田川敬太郎は須永市蔵に対してそこまでの義理がないからだ。須永の文鎮はまた白日夢の中にしかない。考えずに観る、須永市蔵が旅先で辿り着いた自己治療法は、また漱石を心安らかならしめる道でもあったことだろう。



[余談]


 考えずに観る、に関しては結構真剣に考えている人がいたので、後日まるまる掲載します。なかなか良く読めていますが、例によって私が指摘しているような本質的なところは捕まえられていません。

 ちょっと考えておいてください。

[余談②]

 この子の目的は何なのだろうか?

 ここまでしつこくやるからにはデマの自覚はある筈だ。

 狂気性を見せて格好をつけたいのか。

 ツイッターの馬鹿馬鹿しさを主張したいのか?

 鬼怒川や文系という言葉に恨みがあるのか?


 ただ迷惑なやつだと片付けておこう。


 


















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