見出し画像

それともこの家は傾いている? 芥川龍之介の『お律と子等と』をどう読むか③

 そう答えた店員は、上り框にしゃがんだまま、あとは口笛を鳴らし始めた。
 その間に洋一は、そこにあった頼信紙へ、せっせと万年筆を動かしていた。ある地方の高等学校へ、去年の秋入学した兄、――彼よりも色の黒い、彼よりも肥った兄の顔が、彼には今も頭のどこかに、ありあり浮んで見えるような気がした。「ハハワルシ、スグカエレ」――彼は始めこう書いたが、すぐにまた紙を裂いて、「ハハビョウキ、スグカエレ」と書き直した。それでも「ワルシ」と書いた事が、何か不吉な前兆のように、頭にこびりついて離れなかった。
「おい、ちょいとこれを打って来てくれないか?」
 やっと書き上げた電報を店員の一人に渡した後、洋一は書き損じた紙を噛み噛み、店の後ろにある台所へ抜けて、晴れた日も薄暗い茶の間へ行った。

(芥川龍之介『お律と子等と』)

 I don't knowの店員はずいぶんと態度が悪いな。そういう職場なのか。

 去年地方の高等学校に入学した兄。「洋一」は弟。中学を卒業して、……この書き方からすると年子で、「洋一」は高等学校に進学していない。総領息子だけが高等学校に行かせてもらえているのか。

 それで洋一は北原白秋風の歌を書いているのか。

 しかし地方の高等学校に行ったということは、兄は東京の高等学校に進学できるほど優秀ではないということか。それでもなんとか入れる高等学校があり都落ちしたという訳だ。次第次第に地方の資産家の息子でなくとも、そこそこの仕送りができれば、優秀な田舎者は東京の高等学校を目指すという時代だったのか、それともすでに東京だけでも競争が激化していて、兄はそこから弾き飛ばされただけなのか。

 それから「書き損じた紙を噛み噛み」は何なんだ。単なる洋一個人の癖なのか。インクは有害かもしれないし、第一不味いんじゃないのか。ここは「上り框にしゃがんだまま、あとは口笛を鳴らし始めた」ではないが、少し予想外の動きなのではなかろうか。

 ちょっと引用部分を少し戻してみるよ。

 洋一は帳場机に坐りながら、店員の一人の顔を見上げた。
「さっき、何だか奥の使いに行きました。――良さん。どこだか知らないかい?」
「神山さんか? I don't know ですな。」
 そう答えた店員は、上り框にしゃがんだまま、あとは口笛を鳴らし始めた。

(芥川龍之介『お律と子等と』)

 あれれ?

 洋一は「帳場机に坐りながら、店員の一人の顔を見上げた」とあるから、良さんの顔は洋一より高い位置にあるはずだ。

 ところが良さんは「上り框にしゃがんだまま」とある。

 ええと、

 つまり座っている洋一の頭の位置よりしゃがんでいる良さんの頭の位置が高い?
 まあ「上り框に」だから、実質位置は床の高さであり、座るよりしゃがんだ方が高くなる?

 確かにしゃがむと尻は床から十センチ検討高い位置に来るが、体が前傾になる分、頭の位置は少し下がる。仮に座布団一枚でも敷いていれば、胡坐でも座っていた方が頭の位置は高くなるのでは?

 しかしそれは二人の座高が同じくらいという前提で、ここは良さんの座高の高さが指摘されているところではなかろうか。少なくとも芥川は座るとしゃがむの頭の位置の比較を「顔を見上げた」で読者に強いている。


 これが「上り框のところに」だと実質「土間に」ということになるから、良さんはかなりの大男になる。それにしてもわずか数センチの微妙な構図を書いてくるものだ。

 こんな作家、ほかにいる?

 [余談]


 これが150グラム。

 もっと多く見えるよね。

 角度なのかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?