芥川龍之介の『猿蟹合戦』をどう読むか① アンチ敵討ちものとしての『猿蟹合戦』?
昨日、
昨日?
多分昨日、
『或敵討の話』(大正九年四月)
『或日の大石内蔵助』(大正六年八月)
『伝吉の敵討ち』(大正十二年十二月)
『三右衛門の罪』(大正十二年十二月)
……の四作品は「保吉もの」「開化もの」「切支丹もの」と同じ程度の緩い括りとして「アンチ敵討ちもの」と区分しても良いかもしれない、と書いたような気がする。
多分書いたと思う。
しかしどうも何か忘れているような気がする。
酒のつまみは買ってある。ビールも缶チューハイも冷蔵庫に冷えている。
なのに何か忘れているような気がする。そしてふと思い出す。
「猿蟹合戦の猿の行為は明に権利の濫用であつて不法行為であります。」という最高裁による「猿」批判に対して、芥川は『猿蟹合戦』において真逆の立場をとっているのだった。
敵討ちが罪に問われている。……ということはもしかして、この大正十二年二月に書かれた『猿蟹合戦』も「アンチ敵討ちもの」の仲間に加えてもいいのではなかろうか。
と思いきや、実は芥川の『猿蟹合戦』はお伽噺の『猿蟹合戦』から設定として「あること」を無くしているのだ。
仇を取った後とあるのに、そもそも裁判にかかった蟹は猿とおにぎりを交換した当事者であり、復讐の当事者でもあるのだ。つまり猿は蟹を殺していないのに復讐されたことになっているのだ。蟹が死んでいないとしたら、やられたことは精々青柿をぶつけられた程度のことで暴行罪である。それに対して猿は臼につぶされて死んでしまうことになる。計画的な殺猿行為だ。これでは敵討ちというより確かに過剰な仕返しということになる。
敵討ちが成立するためには親ガニは死ななくてはならなかった。芥川の『猿蟹合戦』には晴らすべき親の無念がない。
親の敵討ちは孝である。主の敵討ちは忠である。孝も忠もないところで私が仕返しをすれば、それは確かに私憤である。芥川がお伽噺の「猿蟹合戦」を知らないわけもない。しかし芥川は『猿蟹合戦』において、敢えて晴らすべき親の無念を取り除いてみたのだ。
そうすると確かに反撃の残忍さばかりが目立つ。
しかし芥川はこの作品においてらしくもないミスを犯している。卵は爆発しているので無期徒刑にはできない。逮捕しようにもぐちゃぐちゃだ。
[余談]
こういうことは知っていたが、
こういうことは知らなかった。
何でもありの状態だったんだな。昔も今も。
うん。投資すればいいと思う。
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