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何でも書けばいいわけではない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む73

何でも書けばいいわけではない

天皇崇拝

 作家論の正しい書き方の教科書はまだない。江藤淳や柄谷行人、蓮實重彦らに倣えばたちまち迷子になってしまうだろう。しかし作品論に関しては完全ではないにしろ最低限こうあるべきという共通了解のようなものが既にあるように思える。勿論それぞれの流儀があり、それはかなり異なるものだが、平野はそのいくつかある流儀の中で、

 そのため、本書の方法は、まずは三島の著作を改めて精読し、「作者の意図」を考えるという、殆ど反動的なものである。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 このような古典的な作品論のスタイルを選んだことを「序論」で宣言している。ここで「反動的」と言われているのは、言わずもがなロラン・バルトの「テクスト論」というものが時代を席巻した記憶があるからで、平野がこのように古典的な作品論のスタイルを選んだのは、作者が最初から死んでしまっていては三島由紀夫を殺すことが出来ないからである。

 平野啓一郎の目論見は作品から三島の意図を汲み取り、それを繋ぎ合わせて三島由紀夫を見事に殺すことにある。

 問題は平野啓一郎の選んだ古典的な作品論のスタイルが「三島の著作を改めて精読」することが前提になっているのにも関わらず、精読がなされていないところにある。

 しかし三島由紀夫は死んでいるので何とか殺さなくてはならない。

 この条件が組み合わされると無理が出来てしまう。どうしても繋がらないところを繋げてしまうことになり、私が欺瞞と読んでいるようないかにも不自然な言い回しが出来上がってしまう。

 例えばその一つが「天皇崇拝」である。

 平野は「天皇崇拝」「天皇主義」のカギ括弧が外せない。それはつまり三島由紀夫の「天皇崇拝」「天皇主義」が素朴なもの、純粋なものだとは心の底から信じ切れていないことの素朴な吐露でもあるのだろう。

 しかし生首はある。「天皇崇拝」「天皇主義」を無理にも見つけ出さなくてはならない。最初と最後にはない。

 困った。

 その困った挙句の表現が「天皇崇拝」「天皇主義」なのではないか。

 ここで三島由紀夫作品に天皇が現れるのはいつの時点か、そしてどのように表れるのかと言う、三島由紀夫の天皇論における最も基礎的な確認をしておこう。

……一人一人の曼陀羅は寸分のちがひもなかつたのである。― ―そして、この日からこの國の平和は失はれた。顔を見合はすたびに、人々は屈辱と憤怒の発作におそはれた。――そして、昨日、王様は弑せられた。

(三島由紀夫『曼荼羅物語』)

 ここに幽かな支配者というものに対する疑義は現れるものの、あまりにも寓意が明後日の方向に向かっているので、これはまだ天皇とは言えないように思える。この王様は神話的なものを抱えてはおらず、世界観もエキゾチックに過ぎる。

 また『館』では謀反を企てた女料理人が「王者の椅子」の上で公爵様に刺されて死ぬ。それを見た話者の語りが、

 このをんなはなんというしあはせな女であらうと考へるばかりでござりました。  

(三島由紀夫『館』)

 ……とかなり公爵を持ち上げていて、公爵を死を捧げ得る対象としている。ただこの侯爵もまだ支配者に留まる。

 彼の日もすがら思ひまどうてゐるもの、それのためにおびえつゞけてゐるもの、いはゞ「いつはりならぬ實在」なぞというものは、ほんたうにこの世に在つてよいものだらうか。おぞましくもそれは「不在」の別なすがたに過ぎないかもしれぬ。不在は天使だ。また不在は天から堕ちて翼を失つた天使であらう、

(三島由紀夫『苧菟と瑪耶』)

 この「いつはりならぬ實在」も天皇……近いと言えば近いがもう一つか。 

 椅子にもたれて片手には葉巻をくゆらし、團長は、片手の鞭のさきで空に丸や三角や四角をゑがきながら歌つてゐた。
 こんな時は彼の怒つてゐる時である。彼は酷薄な人と、また、殘忍な人といはれた。彼の殘忍のなかをつよく生きぬいてゆく人々を彼がいかに烈しく愛するか、知る者はすくなかつた。彼が死ねと云へば彼の團員は誰でもたちどころに死ぬのだつた。サーカスの天幕の高いところでは赤い髑髏をゑがいた彼の旗がはためいていた。

(三島由紀夫『サーカス』)

 これが天皇ではないか。何故ならサーカスの旗が日の丸のカリカチュアになっている。つまり団長は天皇のカリカチュアである。そう見做していいとするならば三島由紀夫の作品に最初に現れる天皇は昭和二十三年に書かれた『サーカス』における団長である。

 つまりこんな天皇を描く天皇崇拝者はあるまい。

 石原慎太郎をはじめとして、三島由紀夫の「天皇」を全く信じていない者は多い。理由は簡単である。三島は突然「天皇、天皇」と言い出したのであり、石原慎太郎にしてみれば、「おいおい、あんた何処からそんなものを今更引っ張り出してきたんだ」と言いたくなるほど三島の「天皇」は唐突だったのだ。
 その疑問と答えが二人の対談の怒鳴り合いの中にある。

「三種の神器とは何だ!」
「宮中三殿だ!」

 これほど頓珍漢にされてしまった問いと、出鱈目な答えもないものだ。これでは明治五年まで誰も即位できない。

 つまりここで三島由紀夫は大真面目に、けんか腰に、孝明天皇以前の天皇はどうでもいいと言質を取らせているようなものなのである。いわゆる三種の神器の神話を否定し、万世一系の嘘話を拒否した。

 そんな三島由紀夫が天皇を奉じて、あまりにも過剰なサバイバーズ・ギルトを引き受けてしまったこと、これは石原慎太郎にとってはただ理不尽で残念なことであっただろう。

 ここには明確に解らないことが確かにある。確かに三島由紀夫の外見上の右傾化は『風流夢譚』の筆禍事件後の軍服のコスプレに始まり、『憂国』の天皇は御真影に留まる。

 そこから何故『英霊の声』に飛躍しなければならなったのか。何故十代にはしっくりこなかった蓮田善明に今更共鳴するふりをしなくてはならなかったのか。


形から入る


 これは平野啓一郎の『三島由紀夫論』における決定的な陥穽と言って良いかもしれない。平野啓一郎は『風流夢譚』を掘り下げていない。

 打撃と言えば、昭和三十六年二月一日に発生した嶋中事件の影響も大きい。嶋中事件とは、「中央公論」(昭35.12)に掲載された深沢七郎の「風流夢譚」(夢の中で起こった革命において天皇や皇族が処刑される話を戯画的に描いた小説)に憤慨した右翼少年が、浅沼社会党委員長刺殺事件(昭35.10.12)に刺激されて、中央公論社の嶋中鵬二社長宅を襲って夫人に重傷を負わせ、家政婦を刺殺した事件である。その際、「風流夢譚」を「中央公論」に推薦したのは三島だという風聞が流れ、三島は右翼から脅迫され、約二ヶ月間、警察に護衛されることになる。実際には、三島は「風流夢譚」の雑誌掲載を推薦したわけではなかったが、事前にその原稿を読んでいたのは事実で、この作品の扱いは難しいので自作の「憂国」と併載して毒を相殺したらどうかということを、「小説中央公論」編集部の井出孫六に伝えていた。従って、三島は「風流夢譚」の掲載と全く無関係というわけではなく、その結果として、実際に人が殺され、三島自身も生命を脅かされるというのは、やはり只事ではなかったのである。

(『三島由紀夫 幻の遺作を読む もう一つの「豊饒の海」』/井上隆史/光文社新書/2010年)

 父梓が三島由紀夫の告別式で西武百貨店の堤清二に対して「あんたがあんなもの作ったから」と文句を言ったことには一理ある。あんなものとは「サイボーグ009」風の楯の会の制服のことである。

 繰り返し述べているように表面的な三島由紀夫の右傾化は、軍服のコスプレから始まった。深沢七郎の『風流夢譚』が引き起こした筆禍事件の後、三島由紀夫も関係を疑われ右翼から付け狙われていたためにしばらく警察に警備されていた。そのほとぼりが冷めた翌年の仮装パーティーで着た軍服の評判がすこぶる気に入ったらしく、三島はその後軍服姿でテレビ出演して共演者の嫌悪感を楽しんでいる。

 深沢七郎が事件後しばらく姿を消していたお陰で、三島由紀夫のコスプレは『憂国』にちなんだ思想的変化だと見做されていたかもしれないが、冷静に見れば保身のための右翼ごっこである。自分は深沢七郎とは全然考え方が違うんだ、という装い、正に仮面が右傾化である。

 深沢七郎の「風流夢譚」を『中央公論』が掲載(35年12月)したことに対し、一一月下旬、宮内庁が抗議、中央公論社は陳謝した。この「風流夢譚」の掲載を三島が推薦したとの風評がひろまり、(世界一周旅行?から)帰国してから間もなく、三島の許に脅迫の電話や手紙が届くようになった。
さらに三十六年二月一日には、中央公論社の嶋中社長宅に侵入した右翼少年が、同宅の家人を殺傷する、いわゆる嶋中事件が起こった。
 警視庁からは、身辺警護の申し出があり、外出は勿論、自宅でも、ポケットに拳銃を入れた係官が、絶えず控えるようになった。

(『年表作家読本 三島由紀夫』/松本徹編集/河出書房新社/1990年/p.145)


 しかし実際に三島由紀夫はおそらく『風流夢譚』を評価していた。

 これは『風流夢譚』が『中央公論』に掲載されるまでの経緯を確認すれば明らかである。
 
 一九六〇年(昭和三十五年)九月中旬 『風流夢譚』の原稿が中央公論の編集部に渡る。次長の京谷秀夫と部員二名が読み、十月上旬の編集会議で掲載の方向に決まる。
 ただしその後十月十二日に浅沼事件が起こる。

 その翌日竹森清編集長が『風流夢譚』の掲載中止の判断をする。(当然編集者から深沢にボツの連絡は入っただろう。)
 まもなく『新潮』(!)から、『風流夢譚』をこちらで掲載したいという連絡が入る。(何故『風流夢譚』がボツになったと知っていたのか?)
 竹森氏は締め切りぎりぎりの月末になってから組み方指定の赤ペンを入れて印刷所に入稿する。
 掲載決定の判断に関しては「嶋中鵬二社長に原稿を預けておいたのを社長が載せることに賛成したから」という竹森氏の発言があり、嶋中社長はそれを否定している。
 ここまでの経緯は当時の編集委員、中村智子の手記に基づく。

 この掲載取りやめから掲載までの間に、つまり十月十三日から月末までの間に、三島由紀夫の関与がある。

 一〇月一六日の午後、『小説中央公論』の編集部にいた井出孫六が、三島宅を訪ね、「憂国」の原稿を受けとった。その時、三島は、未発表の深沢七郎の「風流夢譚」を話題にして、
社にもどったら、例の深沢さんの新作とこの『憂国』を並べて載せたらどうかと、編集長に伝えといてください」といった。
 三島には、皇族惨殺の夢想を、そうして滅殺することができればと考えていたらしい、と井出は推測している。(井出孫六「衝撃のブラックユーモア-深沢七郎『風流夢譚』」『新潮』63年12月)

(『年表作家読本 三島由紀夫』/松本徹編集/河出書房新社/1990年/p.140)


 雑誌掲載前に『風流夢譚』の原稿のコピーはあちこちに出回っていたようだ。『新潮』から連絡が入るのもどうも怪しい。三島由紀夫の一声が『風流夢譚』の掲載を決定させたとは思わない。確かに『風流夢譚』は問題作ではあるが、ボツにはしがたい魅力のある作品なのだ。だから決定云々は別として、三島もやはり掲載には賛成していて、掲載に至る経緯には関与していたとまでは言ってもよかろう。

 後輩の面倒見のいい三島のことだから深沢七郎から「中央公論のやつらが渋っている」と愚痴を聞かされていたのかもしれない。そこは解らないが、当時の三島は徹底した反体制主義者であり、反皇室の深沢七郎という作家を可愛がっていたのである。

 深沢は一九五九年十月、すでに、皇太子妃が民間から選ばれ、皇族の血族結婚の伝統が絶たれるのは残念、と反語的な悪意にみちた感想を書きつけていた。三島の『憂国』が、その表題通り、なぜ天皇は聖性をかなぐり捨て、市民社会のほうにすりより”合体“しようとするのか、という反問を隠していたとすれば、『楢山節考』の作者深沢の『風流夢譚』が隠しているのは、その対極からの声、なぜ庶民たちはあの「おりん」を捨てて天皇と”合体”するのか、というもう一つの宗教的感情の根からの市民社会呪詛の声だったといえるのである。

(『もう一つの媾和』加藤典洋/『群像 日本の作家18 三島由紀夫』所収/小学館/1990年/p.295)

 加藤典弘は言葉を選んでいるが、ここで言われている「これがおいらの祖国だナ日記」に書かれているのは「皇族の血族結婚の伝統が絶たれるのは残念」といった曖昧な表現ではなく、「皇室の血族結婚が続いて、未来の天皇御一家の写真は人間離れしたものになっているのを想像していたのに、民間から皇太子妃が選ばれてガッカリした」というより具体的な憎悪だ。


 三島はこんな深沢七郎を叱ろうともしない。沼正三の『家畜人ヤブー』の称賛をみても、三島由紀夫は天皇崇拝者ではありえなかった。しかし外見だけは右傾化してく。
 この形から入った右傾化の正体が(経過を含めて)平野啓一郎にはまるで見えていないようだ。

 まずよく調べよう。

 話はそれからだ。

【余談】

 正岡子規の句を岩波書店が夏目漱石の句だとして「定本 漱石全集」に収載していることに気がついた。

 しかしこの記事にほぼ反応がない。

 これ著作権侵害の捏造、文学史に対する拭い難い悪行、出版社としての信頼を揺るがしかねない大事件だと思うんだけど、どうなの岩波書店さん?

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