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川上未映子の『夏物語』をどう読むか⑫ 楽しいクリスマス


 渡辺直己は『相対幻論または誉め合いのシーソーバランス』において、

 新時代の感性にたじろぐ二人の中年男、ヨシモトとクリモトの対談集というその基本的な骨格からして、すでに二項対立(おまんこ)的なこの書物……

 

 と述べていた筈だが、『相対幻論または誉め合いのシーソーバランス』が今では確認できない。それにしても渡辺直己は何故二項対立にわざわざ「おまんこ」などとルビを振り、吉本隆明と栗本慎一郎を貶めようとしたのか。あるいは馴れ合いの構図を二項対立などとおためごかしに持って行ったのか。


 今回はどうしてもそこから入って行かざるを得ないだろう。

 紺野さんから誘われて飲みに行った居酒屋で、夫や義母への愚痴、さらには自分の両親に対する批判が語られる中で飛び出した言葉、

 わたしの母親って『まんこつき労働力』だったんだよ

(川上未映子『夏物語』文藝春秋 2019年)

 この言葉が過剰に否定したいものはまさに自分の母親が『まんこつき労働力』であることを望んでいることだった。渡辺直己は「お」をつけ、川上未映子は「お」をつけない。この言葉はいずれも女性生殖器を意味しながら前者は馴れ合いを侮蔑し、後者は女性性を侮蔑している。何故「まんこ」が侮蔑になるのか、そのからくりは分からない。しかし現に使われている用法からは、女性生殖器そのものではない侮蔑の意味が伺われることは確かだ。


尚古仮字用格 山本明清 編小林新兵衛 1880年

 白癩という言葉が人を罵る言葉として使われるような形で、女性生殖器は貶められた。男尊女卑、女性蔑視の中でなお雌である母親が紺野さんには許し難い存在なのだ。

 子どもたちより父親が大事な母親が許せない。


 確かにそんな夫婦ははたから見ても厭な感じがするものだ。

 紺野さんはうつ病の夫とという元々関りのなかった他人の人生を背負って暮らしていかねばならないこと、立派な二代目『まんこつき労働力』になること、そして娘に嫌われるであろうこと、そういう自分の選んだ人生に葛藤している。

 夏子はしんどいかもしれないけれど離婚して娘と二人で暮らせばいいという選択肢を示す。しかし紺野さんはもう子持ちの四十路前のゴミみたいなおばさんなのだ。時給が千円もらえない。だから二人では生きていけないという。選択肢と云うものは常に単なる可能性の一つでしかなく、可能性とは別世界ではあり得たかもしれない未来だ。だらしない堅実は一つ。

 二人は強か酔う。

 いやいや。これはこの章の後半部分だ。

 前半は例のイベントの話だ。

 逢沢潤はAIDで生まれた多くの人たちが抱える悩みを語る。なによりも子どもたちのことを考えるべきではないかと。

 この声は参加者にはうまく伝わらない。

 AIDは親のエゴだと主張する参加者がいた。夏子は親のエゴでない出産があるのかと訊いてみたくなるがやめた。

 覚悟のあるちゃんとした夫婦やご家庭には、神様が子どもをお授けになるという発言があり、つい夏子は質問してしまう。それならば何故虐待が起こり、親に殺される子がいるのかと。

 夏子は憤りを感じていた。

 しかしその憤りにはやはり無理があろう。ちゃんとした夫婦やご家庭でないどころか、夏子は労働力は兎も角として「まんこ」にさえなれないのだ。たとえ神様がいても子供を授けることできない。

 イベントが終わり、会場を引き上げるエレベーターの前で夏子は逢沢潤と言葉を交わし、「うまくいくといいですね」と言われる。結婚もしてないし相手もいないけれどAIDをしようと思うと言った夏子に対して。なによりも子どもたちのことを考えるべきではないかと言っていた逢沢潤が、「うまくいくといいですね」?

 いずれにせよ、立派な二代目『まんこつき労働力』になろうとしている紺野さんに神様が子どもをお授けになったことは間違いない。いや、今はうつで役たたずになっている夫が授けたのだ。つまり夫は神様?

 あるいはAIDは神様?

 川上未映子の小説の中では、男と女は常に二項対立の緊張関係にある。女同士のように決して馴れ合わない。そういう意味では渡辺直己は二項対立的という言葉の使い方を間違えている。

 元々関りのなかつた他人の人生を背負うことなく、親のエゴでシングルマザーになろうとする夏子の決心はこのまま揺らがないのか。

 逢沢潤とはこれで終わりなのか。

 たこ焼きは食べないのか。

 それはまだ誰にも解らない。何故ならこの続きをまだ読んでいないからだ。




[余談]

 言わずもがなのことではあるが、もし男性作家がこの原稿を編集者に渡せば、それは勿論力関係と云うものがあるにはあるとして、大抵は大問題になるか、あっさり切られていることだろう。

 本文でも触れている通り女性生殖器と侮蔑を重ねているところがまず常識的にはいけない。

 それに引替え、三万円の貯金と、バラックながら二軒の家持ちの桂子、私は子供の頃、ひとから(おまんこ倉)と綽名される、美貌の未亡人の白塗りの倉を持った家が近くにあったのを思いだす。私はそれでも黙って、桂子に次の日の朝、「金瓶梅」を書き引替えで稿料を持ってきてくれた雑誌社の金を全部渡す。私にも数々の桂子のデタラメがはっきり分る。そして呆れたことに、分れば分るほど不憫なのである。私は桂子とともに情死することさえ不自然でない気がする。

(田中栄光『野狐』)

 しかしそんなものがついていることこそが女性にとって最大にして本質的な問題ではあるのだろう。人生は出産と育児、そしてもともと無関係な夫という他人の人生を背負いこむかどうかという選択肢に曝されている。

 そんなことに今日初めて気がついた。


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