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感想?宣伝? 文フリ京都へ向けて 委託本編

 僕個人としてはなんとなくジャケ買いみたいな出逢い、吸い寄せられるような感覚というのもあると思っているが折角中身が読める文学フリマでそれもあれかー。ってなことも考え少し感想などを書いてみようかと思う。物凄い個人的且つ癖の強い感想になるだろうが…。

 泉由良氏の「詳しい予感」は様々な設定が劇を思わせる短編集。ノスタルジック&レトロ、そして狂気がどれもに含まれているのが良い(良いはず)。あと、圧倒的に安定した筆力がある書き手だと思う。それは「詳しい予感」から離れるが「すな子へ」「夏の前、子どもの集会」を読んでも感じたことで、とにかくどれも強い。「すな子へ」は劇ではなくモノクロ或いはセピアカラーの映画を見ているイメージ、映写機がカラカラって回るあの、雰囲気。たまにノイズが入るような…。
 泉由良氏の小説を読む際、僕は酒を用意する。割とこれは重要で、酒に合う小説って安心して読めることが前提としてあるので、それは同人界隈に於いては珍しいのでは?と思う。だらだら読むためではなくて、リラックスしながら狂気に呑まれる感覚はシンプルに現実と乖離していて心地良くて、一つの芸術として認識している。殺しに来る芸術。「詳しい予感」は短編集なので、どの作品で飲むかでまた、楽しい。短編集って、滅茶苦茶分かりやすくして相手を納得させて、お、おう。ってパターンか、落ちを強めにつけて何となく纏めてしまうかだったりするけれど「詳しい予感」にそれはなくて、読後の酔い、余韻が残る。僕が詩を書いているからこそ少しオーバーに書くと、長い詩を読んでいるともとれる感じ。
 ちなみに純文学とは何かはよくわからないが、純という字はきいと(交じり気のない絹糸)らしいのでそういう意味では純な文学ではあると思う。きいとで編まれた短編集なのだと、思う。
 京都文学フリマでは白昼社(う‐22)にて出店されるので、そちらにて購入される方が良いと思ったりもする。新刊もあるようです。

 にゃんしー氏の「戦場の風使い」は初期の方の作品らしいのだが、展開が気になって一日で読んでしまった。読書が苦手な僕に於いては非常に珍しいことだった。なんでそんな読めたのかと問われると難しいが、僕が漫画脳だということとこの小説が無関係だとは思えない。
 にゃんしー氏は多作(多分)で作品のジャンルが未だにピンとこないが、大衆小説的な純文学の要素を持つライトノベルとか言われても、わかる。と答えてしまいそうになる。こと「戦場の風使い」は漫画好きなら高橋しん的要素を想起させる…と思わせといての鬼頭莫宏感なんですよね。少年/少女性というか、背景よりも心象というか、ネタバレしたいけどしたらダメなのであれなのですが、これはもう読んでもらえばうっひょーってなる一気読みタイプというか、割とハッキリとしているほうかな、と。
 「天地創想」もそういう感じで好き。世界の中心に〈自分〉が置かれたとして大体正しくなんてなくて、では正しさとは?とか考えちゃって、そういう世界と自分と、みたいな。
 あと、読ませたい相手が、特定の人間である前に大衆というか、かなり広い人間を想定していて、文章の構成、文体、語り、など丁寧に書かれている気がする。だから一気に読めたんじゃないかなあ、とも思う。小説ってどんな世界観も許されるし、不義不徳も許されるけれど、いきなりギア全快だと読者は取り残されるので、そういう意味では読者のエンジンをかける柔らかい火があるのだろうと思う。それがどんどん加速するというか…。
 京都文学フリマではデスポリンキー食堂(う‐21)にて出店されるので、そちらにてかなあ。文フリ京都では初の小説がありますし。

 ひざのうらはやお氏の「順列からの解放」は今扱っている委託本のなかで唯一純粋な読み手として読めなかった短編集。というのも、あっ、こういうのは天地がひっくり返っても書けないっていう。予想を裏切る展開とか、予想を超える設定とかではなく(失礼だな)。描写のひとつひとつに仕込まれた凹みだとか、毒のようなものにじわじわやられていく。とてつもなくリアルなようで、意味を本当に理解しようとしたときに怖くなるズレがある。
単語選びとかね、そういう意味でどこか怖いんですよね…。意味がないようで凄い皮肉だったり、裏があったり、本当に意味がなかったり、翻弄されっぱなしという。
 「順列からの解放」内で最も好きなのが(春なのに工事中)で、これは単純に好きなテイストだった、としか言えない。場所、登場人物、台詞、展開がドンピシャだった。逆に言えば、ひざのうらはやお氏の凹みや毒があまり分散しておらず一点集中していたので、純粋な読み手として読めてしまったのかもしれない。それは分からないです、ハイ。
 どの作品でも、ハマると沼るのがひざのうらはやお氏の作品なのかもしれない。どれもが繋がっていないようで繋がっているし、視えない何かがクロスオーバー出演しているというか、次元が歪んで散ってしまった(として)、すべての本を集めたとき一冊の宇宙になるんじゃないだろうか…という不思議さがある。
 では、ジャンルは?と問われれば全てのジャンルを反復横跳びしながら前進したり後退したり、そもそも残像だ。って感じのジャンル?としか言えない。つまり独自のブランド。
 「順列からの解放」はネット通販のBOOTHで買えます(?)が、文学フリマ京都にお立ち寄りの際は是非お買い求めください。

 豆塚エリ氏の「夜が濃くなる」は現時点、仔猫社で扱う唯一の詩集。現代詩という括りが得意ではない僕からみて「夜が濃くなる」は現代詩ではないと思っている。だからって〈何詩〉かは分からない。ただ、詩である。
 小説の「ネイルエナメル」も扱っているが、小説との大きな違いは、心の叫びが全力みたいなところ。でも詩だからトランペットのミュートのやつを、ちゃんとつけて全力!みたいな調整は施されている。読めば痛みを知るだろうと思う。あと諦めに似た何かであり葛藤。そこに悲劇の主人公性というのはなく、人がどこかで持つ(持つことになる、持ったかもしれない)苦悩を知る。そしてそれがある意味ではどうしようもないことを知る。エールというものよりも、豆塚エリ氏の貌のほんの一部を知るし、人々のほんの僅かを知る。そんな詩集が「夜が濃くなる」なのだろうと思う。最も新しい「Harmony」だけ雰囲気が違うが、それ以外は「渦巻く心の声」というイメージが強い。
 ちなみに、すべての本、と言っていいほどに装丁が美しい。僕は初めそこに惹かれ購入した記憶がある。所謂、僕のなかにあるジャケ買い精神、それが働いた。正方形の珍しい形で、出来上がった経緯を伺うと更にはえ―…すごい。ってなる。なので僕自身としてぶっちゃければ憧れは強いですよねえ。作品をつくることばかり考えていたけれど、作品を編み、収めること。表紙から詩は始まっているのだと考えさせられた。

 同氏の「ネイルエナメル」は詩集とは違い、叫びを抑え訴えに転じ、けれどもクールなまま物語に変換しているような感覚を抱かせられた小説。読後もの思いに耽るというか、余韻が残るというよりは、考えさせられる課題が幾つも浮かんでくる感じ。なので正直、読むときにパワーはいるし覚悟もいる。けれどあれこれ考えろ、では勿論ないし、考えなくてもいいのだろう。そこは自由。だってそれが文学ですし(考えながら読んだ方が面白いタイプだとは思う)。
 ただ、皹みたいな、日常の裂け目とか暗雲みたいな、そういう怖さや痛みは感じてしまう。描写がリアルで、どこまでいっても「ありえないところ、設定」にいかないかんじ。そうなってくると読む側からしても「ありえない考えや行動」は起こりうるレベルのことでしかなくなるし、メチャ怖いんですよね。作品を読むことで自問自答してしまうというか…。考えすぎなのかもしれないけれど、総じて豆塚エリ氏の文章に救いはあっても甘さはないかな、って。

 豆塚エリ氏のこれらの作品は「こんぺき書房」HPから通販にて買えますが、京都文学フリマにお立ち寄りの際は是非お買い求めください。


 以上です。
 思った以上に長くなった割に話反れてるし、纏められてないしダメだあ。感想なんて十年以上前の読書感想文が最後なんですよ。許して…。なんかホント、言語化するの苦手で致命的で、「あー、えーなんだっけ、そう!ソレ!」っていう後の先取れれば上々っていう感じなので…。
 もしも仮に僕的感想ほぼ100%をやると、
 作品を~・・・石と!惑星と!キ!ノ!コ!に例えるならー、デデン‼‼

「詳しい予感」アメシスト、火星、アンズタケ

「戦場の風使い」トパーズ、地球、キヌガサタケ

「順列からの解放」菊花石、土星、シャカシメジ

「夜が濃くなる」タイガーアイ、海王星、フクロタケ

「ネイルエナメル」ガーネット、木星、タマゴタケ
 

ってなります。(ちょっとなにいってるかわからない。)でもこっちのが伝わりやすい場合だってあるかもしれない…いや、知らん。
 でも、好きな本のことをやっとかけたのは良かった。リベンジはいつか、したい。

 次回は自分の詩集とフリーペーパーについての宣伝をほんの少し書ければと思います。

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