海士町表紙

”ないものはない島”と、”何もない私”。

島根県は隠岐諸島の一つ、中ノ島。
海士町と呼ばれるこの島は、人口約2300人ながら多くの人を惹きつけている。今や数多くのメディアで取り上げられている”有名な島”だから、きっとこの町の名前を聞いたことがある人も多いはず。

何をきっかけにこの島のことを知ったのかは覚えていないのだけれど、いつからか知っていた。それでも”絶対に行きたい”という決定的な何かが無かったから、これまでこの島を訪れることはなかった。


でもちょうど[breath]というプログラムに出会った頃から、旅に出るのにちゃんとした理由なんて必要なのだろうか?と思うようになった。

それはきっと、自分自身の行動に一本のまっすぐな筋を通したい。通さなければ。というマイルールに縛られている自分を意識し始めたからだろう。

このプログラムは私に、”直感”と”つながり”を大切に生きることを教えてくれた。そして”自然体”という言葉の通り、自然に溶け込むように生きる自分自身を見せてくれた。



そんなプログラム後の第一歩。
ちゃんとした理由なんていらないから、何となく今一番気になるところに行ってみない?目的が何かなんてちゃんと定めなくてもいいじゃない?

本当にそれだけ。それだけの理由で海士町に行くことを決めたから、この旅にちゃんとした説明なんて求めないでいただきたい。

でも一応、きっかけみたいなものはある。だから、なぜ海士町が気になったのかという問いに、少しだけ向き合ってみる。

それは、”ないものはない”というこの島のキャッチコピーが、今の自分にぴったりだと思ったから。



この言葉には、二つの意味がある。
一つは、”無くてもよい”ということ。
もう一つは、”大事なことは全てここにある”ということ。



”ここじゃないどこか”や、”私に無い何か”というように、ずっとずっと遠くを見つめて、”今”に気づかないまま、それをないがしろにしながら生きてきた。

そんな私にとって2018年は、”ないもの”より”あること”に目を向け始めた一年だった。

だから、自分の周りにあふれているあたたかさや小さな幸せを、一つひとつ感じながら過ごしてきた。私がずっと、どこか遠くに求めていたものたちは、本当はすぐそばにあったのだ。

それと同時に、”何もない自分”と正面から向き合うための時間でもあった。
それは、スキルも地位も、将来の明確なビジョンも人生の目的も、何もない自分をひしひしと感じる瞬間が多かったから。確かに私には何もない。それでも今ここで生きているという事実だけは存在していた。



海士町に行くからといって、何が得られるかは分からない。今まで通り、ただただ楽しい旅行になるかもしれないし、これからにつながる大きなきっかけになるかもしれない。それは分からないけれど、今のこんな私だからこそ訪れるべき場所な気がする。

自分の中でいろんなことがふんわりと重なって、いつの間にか”どうしても行きたい場所”になっていたのだ。



長い移動の道中で思い出したのは、2年前の夏、ある島でインターンをした時のこと。

住み込みで働かせていただいていた家のご家族が病気になった時、島には設備が整った病院がないからと、体がしんどいのに飛行機で本土の病院まで向かっていった。

またある時は、久しぶりに本土に住んでいる家族に会いに行くことを、何か月も前から心待ちにしている人の話を聞いた。

私が今住んでいる富山という土地も、都会に比べれば不便なことが多い。
それでも、会いたい人に会いたいときに会いに行くことはできる。
行きたいところに行きたいときに行くことも、さほど難しくはない。

島はまるで、日本だけれど海外のよう。
いやむしろ、海外の方が行きやすい、なんてこともあるのかもしれない。



私は時々”離島”と呼ばれる場所に旅行に行くのだけれど、やっぱり住もうとは思わなかった。島は私にとって遊びに行く場所で、暮らす場所ではなかったのだ。

それでも私が向かっている海士町にも、そこで暮らしを営んでいる人たちがいる。もっと便利な場所があるというのに、どうしてわざわざ島にいるのだろう。島の方には本当に申し訳ないのだけれど、そう思わずにはいられなかった



海士町に着いてから、”何もないところによく来たね”という言葉を何度もかけられた。

確かにこの島には、コンビニも無ければ、24時間営業の店なんてもってのほか。信号はあるけれど、ずっと点滅している。もちろん電車なんて走っていないし、大型の商業施設もない。



そういうものたちは私たちの暮らしを便利にしてくれるけれど、本当になくてはらないものなのだろうか。どこにでもある必要はあるのだろうか。

ぼんやりと浮かんでは消えるそんな問いたちに対するヒントを、私はこの島でもらったように思う。



それは、”人生には陰と陽がある”という話だった。

私たちの人生を、長い目で見ても、1日単位で見ても、そこには良いことも悪いこともたくさんある。どちらかだけが長く続くことはなくて、同じだけ詰まっている、という。

もしも良いことや楽しいことしか起こらなかったら、それがその人の日常になって、些細な幸せに気づけなくなってしまう。だから辛いことがあるということは、決して悪いことじゃないんだよ、って。

なんでもすぐに手に入る。どこにでも行ける。
それが私にとって当たり前になっていたから、そうじゃない世界を見ると、とてもじゃないけれど耐えられない、と思ってしまう自分がいた。

そして”もっともっと”と進化を求める。
それはまるで、”陽”しかない世界にいるみたい。



中々手に入らないことがある方が、手に入ったときの喜びは大きい。
中々会えない人がいる方が、会える時間を大切にしようと思える。
そして今、”ある”ことに目を向けるだけの余白ができる。

確かに不便かもしれないけれど、便利になればいいってわけじゃない。
島で暮らす人はきっと、大切なことをたくさん知っている気がする。

そしてこの島は、私たちに”本当に大切なことは何だろう?”と考える機会を与えてくれる場所なんだ。



自分自身に対して言えるのは、無いということを、それが良いとか悪いとかっていう判断は抜きにして、そのままに受け止められるようになりたい、ということ。

海士町では、親切にしてくださった方、お世話になった方がたくさんいた。
そうなると、何か役に立ちたいと思うし、認めてほしいと思ったりもする。
そう思えば思うほど、何もできない自分を痛いほど感じで、しんどいなと思ったりもした。



それは別に、海士町だから起こる現象じゃない。日常のいろんなところにあふれている。

何かできるようになりたいと思う気持ちは向上心につながり、成長するきっかけになるかもしれない。

だけどそれと、今の何もできない自分に対して否定的になるのは別の話なのだと思う。今の自分を否定したところで、今の自分は幸せになれないから。

できないんだという事実をそのままに受け止めることと、与えてもらえることの幸せを感じること。それが何もない今の自分が今できる精一杯のことなんじゃないかな、と思った。


散々”ないもの”の話をしたけれど、実はこの島に素敵なことをしている人や、素敵な場所があるっぽいということを、なんとなく知っていた。
だけれど、それを知ってしまうとせっかくの”ないことを味わう旅”が、急に味気なくなってしまいそうだったから、詳細は調べずに向かった。
だからそれらはぼんやりと、頭の片隅にあるような、無いような、という感じ。

それでも海士町は本当に、来たその瞬間からとにかく濃かった。



15キロの荷物を背負って3キロの道を歩くのか、と思っていたら港まで迎えに来てくれたり。

お手伝いしながら泊まっていた旅館には、着いた瞬間お酒とお雑煮をごちそうになり、初詣まで。

そしてそのあとは忘年会とライブ。



初日から、あり得ないくらい充実していたのだけれど、人も事の展開も、勢いがすごすぎて圧倒されたり。それっぽく周囲に合わせている自分と、ずっと合わせ続けるのはしんどいな、と思う自分がいてもやもやしていた。

そんな気持ちでいた時に、偶然立ちよった場所で私は救われた。



やっぱり島は、良くも悪くも人との距離が近いから。
そんな環境に着かれたときに、いつでも来れる場所を作りたい。
ここでは泣いても、愚痴を言っても、何をしてもいい。

そんな素敵な場所と人に出会えたから。




そして私は、ずっとずっと周囲の環境に適応しようと思って頑張って生きてきたのだということに気づいた。新しい場所で中々なじめない自分が嫌だったし、そんな自でこの先うまくやっていけるのか不安だった。

私が濃いなと思っている人たちはきっと、ちゃんと自分を持っていて、そのペースを守っているだけなのだろう。だから、他人と私のペースは違うかもしれないけれど、私は私のペースを大切にしていきたい。

例えば私は、ゆったりとした、言葉のない時間も楽しみたい。だから愛想のいいふりをして、無理に馬鹿笑いしたり、何か話さなきゃと頑張るのはやめよう。あくまで私のペースで。




もしそんな私のことを面白いね、と言ってくれる人がいるならば、それは本当に幸せで。そんな人を大切にしていけばそれでいい気がした。



島の中でどこに行きたいのか。いつまでいるのかも決めずに来たけれど。
この島で生まれたの一つひとつのつながりが、私の想像をはるかに超えていろんなところに連れて行ってくれた。



だから焦って何かにたどり着こうとしなくても、必要な時に必要な人や場所に出会える気がする。

今会えないのなら、それはその時じゃないから。

私はそのタイミングがやってきた時に、逃さないでちゃんと掴むこと。とりあえず今は、それだけできれば十分なのかもしれない。



さあ、今年はどんな1年になるだろう。
心地よい時間と人たちを大切に。
海士町での5日間は、素敵な1年の始まりにふさわしい時間だった。




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