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我々はきっと、もっと、自分の物語を紡ぐ様に生きるべきなのだ

「心は一度折れたら、また折れてしまうのか?」
ということを最近、よく考える。特に理由もなく。

今日はそんなことを考えながら、似た様な境遇にいるであろう方々に向けて、少し元気を与えられるであろう私なりの考えを共有してみようと思う。


心が折れるという感覚は体験してみないとわからないよね

心が折れる、という表現にいささか違和感を感じる人もいるかもしれない

心は無形であるし、芯があるのかもわからないし、そもそも折れる様な類のものなのかもわからないからだ

でも、確かに私が感じた挫折感や絶望感に表現をつけるのであれば、「心が折れた」になると思うのだ

自分の中で、「こうあるべき」や「こんなふうにしたい」と思っていたことがガタッと崩れてしまった感覚を表現するにはこれが一番良いと思っている

かつての私はこの感覚がわからなかった

かつての私ながら、「そんなの仕事していればいつでもあるでしょ」と思っていた様に思う

自分の思い通りにならないことや、少し嫌なことがある時に、”骨が”折れるなぁと思う感覚やめんどくさいなぁと思う感覚と、心が折れる感覚を同一視して語っていたと思う

でも、周りに巻き込まれて面倒やことや骨が折れるという感覚は、心が折れるとは違う。そこには無力感も諦めも無気力感もないのだから

「ああ、そうか私が今できることは何もないのか」と絶望することによって、心は折れる。それも勝手に折れるのだ。

ある時、疲労骨折の様に折れてしまう感覚である。

多分、これは経験したことのある人しかわからないと思う

怪我をしたり、挫折をしたりして立ち直るからこそその人の物語は感動的なドラマを生み出す

身体と心はやっぱり似ている部分も多いと私は思っている

心も一度折れてしまうと、本質的に折れやすくなったかどうかは誰にもわからないせよ、個人の感覚としては前より折れやすくなった様に感じてしまう

これは、アスリートが怪我をして復帰をした後に、再発を防止するために以前やっていたような激しいプレーはしなくなったり、サッカーであればヘディングができなくなる現象と似ている

アスリートの中には怪我のせいで生まれた制約をうまく活かす人さえいる

怪我をしたアスリートは、必ず私も怪我を庇いながらプレーするわけではないにせよ、以前と同様のプレーができるわけではない

けれど、時折自分の中でヒートアップしてしまうと以前と同様のプレーをしてしまって後で少し後悔することもあるだろう

でも、全体としては以前とは違う戦い方をせざるを得ないのも事実なのだ

スピードで誇っていた選手は確実に足が少し遅くなってしまうだろうし、度重なるスプリントが難しくなることもあるだろう。

だから、テクニックや頭脳を使ったプレーに自分の強みを乗せて、なんとか生き残ろうとする

きっとそんな感じなのだ

怪我をしたこともその人の人生なのであって、そこから何か新しい一歩を踏み出していくからかっこいいのである

あまりスポーツに詳しくない人は「怪我がなければよかったのにね」と気軽に言う

否定するつもりはないが、ちょっとピントが外れていると思わざるを得ない

だって、怪我するくらいに真剣にやらないと多分その人はそこまでのレベルに到達できなかった可能性もあるのだ


「怪我がなければよかったのにね」というのは、一見残念がっている様で、その選手に三行半をつけている様にさえ思えてしまう。

個人的にはその方へのリスペクトが足りてないと思えてならない

そこにはどこか、「怪我をしてしまったら終わり」という価値観がある様な気もしてしまう。とても残念でならない。


もちろん再起不可能なほどに怪我をしてしまったらその人が人生が壊れてしまうし、そのリスクがいかに大きいかもわかる。

でも、復帰した人や違う領域で活躍している人に対してその種の発言をさせるとどうにもいかんせん納得がいかない

怪我を乗り越えた後により高みに到達している選手も多くいるのだし、1ファンとしては怪我を乗り越える姿こそ感動を与えてくれるのだと私は信じているからだ

その人の物語が面白くなるためには、巧妙なストーリーではなく、ユニークなドラマが必要なのだ

物語を作る時に大切なのはドラマである、と語る本を最近読んだ

多くの作家は、ストーリーをこねくり回そうとする。が、そんなことよりもありふれた展開でいいから、登場人物たちが鮮明で個性のあるドラマを書こう。そんなことを教えてくれる、面白い本だった

自分の物語が面白くなるためには、いっときの怪我や挫折は必要なのだ。そうでないと面白いドラマにはならないのだから

我々もきっと、自分自身の物語を紡ぎながら生きているのである。作家は自分であって、物語の主人公も自分の物語を生きているのだ。

物語にはいろんな種類がある。落ち着いたものもあれば、ジェットコースターみたいなものもある。人気になるものもあれば、コアなファンが静かに好んで読むものもある

我々はきっと、もっと、自分の物語を紡ぐ様に生きるべきなのだ。

誰かの描いたプロットの上を、決められた役の様に演じるのではなく、監督や演出の指示を聞いて誰かの様に振る舞うのではなく、自分自身が自分自身らしく物語を演じるべきなのだ

自分の物語というのは、そんなに思っているほど順風満帆でなくていいのである。時に大きな失恋をしたっていい、仕事に挫折して無職になっていたっていい、金の亡者になっていろんな人を裏切ってしまったっていい

人はそれを劇場型というのかもしれないけれど、そんなことは知ったことではないのだ

ジェットコースターみたいに乱高下する人生しか生きれない私の様な人物も、しがない会社員で平凡な毎日を淡々と過ごす私の友人も、違う物語を生きているだけで、優劣などないのだから。

大きく凹んだ後には大きく跳ねることもあるし、変化は大きい方がドラマになるから面白い

あなたの物語はあなたのものであって、私の物語は私のものである。そもそも、誰かと比べるものではないのだ

大きな挫折があったとしても、大きな失敗をしたとしても、結果的に自分がどの様に進んでいくか次第で、自分の物語がうんと面白くなるかもしれない

ただ単純に、自分の物語ではその瞬間、ひどく落ち込むという展開が待っていたというだけなのだから。大きくマイナスに落ち込んだなら、元の水準に戻るだけで劇的な改善に見えることだってあるのだ。

マイナス、ネガティブ、失敗、そういうダウンサイドの事項は全く悪いことではない。

むしろ、私の様なジェットコースター型の人生しか歩めない人たちにおいては、ダウンサイドが大きければ大きいほど、アップサイドが大きくなることだってあるのだから。

振り子がゆらゆらと戻ってくる様に、人生だって行きつ戻りつするのだ。大きく凹んだら、大きく跳ねることだってある。だから人生というのは面白いのである。

どんな出来事も自分の大切な物語のエピソードになると思えば、もっといろんなことが愛せるようになる

そう思ってくると、生きていく全ての事象が物語の様に思えてこないだろうか?

いろんな良いことも悪いこともある。でもその全てが物語のエッセンスになって、自分の人生に彩りを加えてくれていると思えば、いろんなことをもっと愛せる様になるはずだ

どんなことも、「ああ、これはいいエピソードになる」と思えば、ポジティブに考えることができるし、きっと楽しく過ごせるだろう。きっと、私の人生にはこの経験が必要だったんだと愛せる様になる。

あなたの挫折を誰かが嘲笑したことも、また挫折してしまったことも、逆に挫折をバネにして大きく跳ねることができたことも全部大事なあなたの物語なのだから。

物語を紡いでいきたくなった人へ

note や日記などに書き溜めながら、そんな素敵な毎日を生きられると思うとワクワクしてきませんか

毎日でなくてもいい。少しずつ、自分の人生を書き留めながら、いつか未来の自分が「ああ、過去の自分のおかげで今の自分があるんだな」と思える様に物語を書き残してみませんか

そんなことを通して、いろんな挫折を経験してダウンな気持ちになっている全ての人が、この先ポジティブに、自分の人生を楽しく生きていけます様に、と願っております。

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