あなたの顔は、ブスですか?――「顔」と「自意識」についての覚書③

いつから私は「キモメン」になったのか?

 さて、「顔(というかビジュアル)」と「自意識」について考えたいわけだが、果てさて私はいつから「キモメン」になったのだろうか。と言うと、不思議に思う方もいるかもしれない。「いつからって、産まれたときからでしょう笑」みたいにね。
 が、それは違う。いや、正確に言えば、その通りで、産まれたときから「キモメン」だったのかもしれないが、「自意識」の観点から言えば誤っている。産まれたとき、物心がついたときに、自分を「ブス」「キモメン」と認識した人はいないはずだ。
 私が、自分で自分の顔が悪いことを認識したのは、いつからだろうか。7歳、8歳、9歳あたりではないだろう。じゃあ、10歳?11歳?……もはやわからない。

 前回書いたように、私は取り立てて、人から顔についてどうこう言われて傷つき、自分の顔の悪さを認識したわけではない。ただ、いつしかそこに、顔の悪い自分がいたのだ。まさに自意識の芽生えと歩を合わせている気がするではないか。

「美人」「ブス」という自己認識


 その昔、底意地の悪い私は好奇心のまま、ふとしたタイミングで、明らかな「イケメン」「美人」に、「いつからイケメン/美人って、自己認識したの?」と質問していたことがある。「イケメン」からは明瞭な答えはなかったが、「美人」は「中学のときに、昼休みに上級生がわざわざ私を見に来ていて、それから……」みたいに明確だったりした。ともにサンプル2~3であるが。
 流れで書いたが、男女でどうこうの話は書きたい主旨ではないし、私は男なので、したい話は基本的に「イケメン」「キモメン」の話である。ただ、もしかしたら男女で「顔」への認識の温度差はあるかもしれないので、2つだけ書いておこう。

 以前に、「美人」と一緒にラーメン屋に行ったことがあった。銀座近くの綺麗なお店だ。そのときにちょっとばかし驚いた。客にはおじ様しかいなかったのだが、ものすごく視線を浴びたのだ。もちろん私にではないだろう、彼女にだ。食べている間、明らかにジロジロと見られていた。その視線の先が、私か、彼女かまではわからないが、そりゃ彼女だったろう。「イケメン」と連れ立って歩いても、そんな視線は浴びたことはない。彼女は特になんてことなさそうに、ラーメンをすすっていた……。
「美人だから、内面を見てもらえなくて、悩んでるんです~」的なていの言説に出会うと、何言ってんだコイツッて感じだったが、というかそれは今でもよくわからんが、なるほどこりゃ面倒もあるなとは感じた。
 逆の話もしよう。「ブスだから、内面を見てもらえなくて、悩んでるんです~」パターンだ。そう言う女の子が昔いた。正直、彼女は到底「美人」ではなかった、かといって取り立てて「ブス」でもなかった気がする(「美人」はともかく「ブス」かどうかは私にはわからんが)。こう書くと非難されるかもしれないが、正直なところ彼女は「内面が素晴らしい」という感じの人ではなかった。とにかく自分が好きで、自分のことしか考えてなさそうなタイプの人だった。
 彼女はむやみやたらと、「美人」を称揚し褒め殺し、それでいて「美人のことを好きそうな男」、もっと端的に言えば「男」を憎んでいた。かといって、褒めまくっている「美人」と仲が良いわけでもなかった。だから、男である私も仲良くなることはなかったのだが、彼女のつらさを「キモメン」たる私は一切理解できないわけでもなかったので、なんとなしに寂しい感じがした。

橋本治『美男へのレッスン』について

 余計なことを書いてきたが、ここで言いたいのは改めて、「自意識」である。先に挙げた2人とも、たまたま出会っただけの人物なので、一般論にはできない。ただ、やはり「顔」と「自意識」はどうしようもなく分かちがたいとは思う。ここからは、「イケメン」「キモメン」「自意識」だけの話に移っていこう。

 中二病という言葉があるが、人が「自意識」に苛まれるのは、おそらく小学校高学年~中学生の時分だろう。まさに私は、その時期に自分の「顔の悪さ」に悩んでいたように思う。
 小学生のころに、推理小説、SF小説、歴史小説にハマり、中学から文学にハマって中原中也を知り、その流れで小林秀雄を読み、さらに先で知った作家に橋本治という異才がいた。彼の著作『美男へのレッスン』を読んだのは、中2か中3のことだったろうか。その本の「はじめに」はこう始まる。

 本書は、「美男の論」である。(中略)自分を「美男」や「美人」だと思えなくて、それでウジウジクヨクヨしている人間より、自分を「美男」あるいは「美人」と思って元気溌剌としている人間の方がマシである。だから私は、多くの男が根拠なく「自分は美男だ」と思いこんでいることを、イチガイに「悪い」とも思わない。その人のためには、「結構なことだ」と思う。がしかし、それで困るというのは、そんな風に勝手に美男というものを拡大解釈されてしまうと、「美男」というものが歪んでどこかへ行ってしまうということである。(中略)

 世の中には、明らかに「美男」がいる。
 それでは、「美男」とは、どんな男か?
 それは、「醜男〈ぶおとこ〉ではない男」である。
 それでは、「醜男」とはどんな男か?
 それは「美男ではない男」である。
 読者諸賢は、これ↑をはたして"言い換え"だと思うであろうか?

 多くの男は、そんなに美男ではない。と同時に、その多くの男は、そんなに醜男ではない。がしかし、「美男」でなければ「醜男」なのである。「醜男」でなければ「美男」なのである。そんなに美男ではなくて、しかし「自分は醜男ではない」と思ってしまえば、その瞬間からその男は。「美男」である。こういうことが、男の場合は可能になる――そしてこれこそが、男というものの「支配的な特権」なのである。(後略)
(『美男へのレッスン』中公文庫〈上〉)

 この本が最初に出たのは、1994年で、テーマも書きっぷりも、さすがとしか言いようがないが、何より「顔に悩む」自意識の肉体を持った私にとって、橋本治は刺すような言葉を綴る(ちなみに死ぬ間際まで書き続けていた天才・橋本治に、名文は多数あれど、完成された名著は一冊もない)。
 この本には、こんな一節もある。続けて引用しよう。

 美男じゃない男は、結構、公的シチュエーションの悲惨さに耐えられる。しかし、美男だった場合には、これがとてつもなく悲惨なものになる。それは一体なぜなんだろう?
 その答は、「若さが"無能"あるいは"社会的な無意味"に結びついても、人はなんとなく"そんなもんだ"と思うだけだから」である。
 若い人間は、「下積み」であることを要求される。そして、まともな人間なら、そんな状態を、「まだまだ僕は若いんだから」で回避する。それが「まとも」というもので、若さというものは、未完成だからこその「稚さ」なのだ。
 がしかし、困ったことに、「男の美貌」というものは、やっぱり若い時にに一番輝くものなのである。そして、「若さ」には、「若さ」以外のなにもないのである。そして、そのなにもない中に、「美しさ」という余分なものだけが、燦然と――輝く者の上には――輝くのである。燦然と輝いて、若い男の美貌は、その若い男の上に暗い影を落とすだけだ。それは、公的には、「なんの役にも立たないもの」なのだから。(同前)

 つらつらと書いてしまうので、ここいらで終わりにしようか。

「美しい」ということには、それくらいの力がある。だからどうなのかというと、こういうことになる――。
 つまり、「美男とは、生き方を外見にゆだねてしまった、動物の一種である」と。(同前)
 美男の「目的」――あるいは「仕事」「役割」とは、「自分には現状維持のシンボルという役割がある」という、そのことである。(同前)
 美男はバカで、天真爛漫な生き物である。対社会的な表情は「美貌」で、そのことによって己れの社会性を満足させてしまった美男は、だから「もういいだろう」とばかりに、その残りは、「天真爛漫のバカ」である。人は美男の対社会的な顔ばかり見ているので、美男がその裏側でとんでもないほどの「ただのガキ」であることを知らないが、実のところ美男は、その端正な表情とは裏腹に、コロコロ笑い転げる、無邪気な赤ん坊なのである。(同前)

 もういい加減、引用するのは止めよう。詳しくは読んでいただくしかない。ただ、誤解がないように言いたいのは、この本は橋本治が、ルサンチマンだのなんだのから、美男をバカにした本ではない。それどころか、おそらく橋本治は美男(現代ならイケメン)が好きだろう。
 では、この本で何を橋本治が言いたかったかというと、「自意識まみれのお前は、その時点で美男(=イケメン)ではない」ということである。

 私は、「イケメン」に対して嫉みも妬みもない一方で、ただただひたすら羨ましく思う。何もしなくても、何も考えていなくても、価値がある人間、それだけが「イケメン」なのだ。ここにアイロニーはない。ああ、本当に私は「天真爛漫なバカ」になりたかった!
 そして、自分が「イケメン」でない、すなわち「キモメン」であることを明確に自覚してしまうのだ。(つづく)

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