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暴力の裏にある、震える心を見つめて


小さい頃、世界の全ての良くないことは暴力から起こるんだと思っていた。
それは物理的な暴力だけじゃなくて、言葉の暴力も含めて。

でも、それは違うんじゃないか。と、思い始めている。

初めてそれを思ったのは、ディズニー映画『ズートピア』をみたことがきっかけだった。

映画では”ズートピア”という、草食動物と肉食動物が仲良く暮らす社会が舞台になっている。しかし、映画中盤で、その”ズートピア”で肉食動物が次々に草食動物を襲う事件が起こるようになる。
実は、昔の弱肉強食のヒエラルキーを嫌い、恐れ、自らの権力を高めたい草食動物の一部が、薬を用いて肉食動物を凶暴化し、わざと事件を起こしていたのだ。彼らは事件によって”ズートピア”市民の恐怖を煽り、危険な存在として野生動物を”ズートピア”から排除しようとしていた。
(この後”ズートピア”が一体どうなったのかは、ぜひ映画を観て確かめてみてください。笑 いい映画でした!)

この映画で草食動物が肉食動物を排除するために利用しているのは、暴力でも権力でもなく、草食動物、

つまり自分達の恐怖である。

ここで面白いのは、実は迫害側である草食動物の多くが、被害者意識から行動を起こしていることである。そこに自らが肉食動物を迫害をしている、という意識はとても薄い。それは彼らにとって自己防衛、だから。
危険な肉食動物による被害をこれ以上見逃すこと、こそが彼らにとっては悪、なのだ。

そう思って見渡してみると、歴史に起こった悲しい出来事も、恐怖が原動力となって起こっている、という部分があるんじゃないだろうか。
ユダヤ人大量虐殺、黒人迫害。身近な例だと、DVや、いじめも当てはまるケースがあるかもしれない。

それらには、

自己を何らかの形で損なう可能性のある(正確にいうなら、可能性があると当事者が自覚している)他者の存在に対する恐怖

排除、相手を損なう行動

という、流れが発生している。

ここで気になるのは、自己とはどこまでで、他者とはどこからなのだ?という問いだ。
ここは答えはないんだと思う。というか、自己と他者の境界線は、任意に移動させることが可能だ。つまり、自己にとって危険な他者というものは、時に恣意的に線引きをして作り上げることができる、ということ。

大学で勉強した、戦後イギリス社会にブリティッシュムスリムが労働のために流れ込んだ歴史が分かりやすかったので、具体的な例を考えながら、先ほどの流れをもう少し丁寧にみていきたい。

イギリスによる植民地支配の終了後、多くのブリティッシュムスリムが仕事を求めてイギリスに入国して来た。自分達が支配をしていた土地の人々が自国に入り込んで来たことによって、目に見える形で、イギリス社会に現れると、イギリス人は植民地支配をしていた時には感じなかった恐怖を覚えたそうだ。

「彼らが入ってくることでイギリス(我々)が、脅かされるのではないか?」

自らが支配をしていたという記憶から、復讐的なものを恐れる感情もあっただろう。しかし、彼らの心にあったのは、自国への他者の流入が自国の存続を脅かすことへの恐怖だった。

「イギリスを守らなくては。イギリスは歴史があり、高貴で、知性溢れる国だ。そこに、野蛮で、遅れていて、粗野なムスリムが入って来ては困る。そんなことになれば、イギリスが脅かされてしまうのではないか。」

この時イギリス人にとって、実際にムスリムが何であるか、どんな人たちであるかは問題ではない。
彼らは、自己が脅かされるという恐怖に対して、自己の正当性、価値の担保の必要性を感じ、ムスリムが"自己でない他者"として、逆説的に価値を持たない、または自己よりも劣っているものであるというレッテルを貼ることが重要だったのだ。
実際に、ユダヤ人の大量虐殺において、ユダヤ人が遺伝的に劣っているという説が広く出回っていたのは有名な話だが、それが事実ではないことは、現代に生きる私たちにとって自明なことである。

ブリティッシュムスリムに対するイギリスの反応から、
恐怖から排除、相手を損なう行動までの流れのなかには、大まかに分けて3つのステップがみられるんじゃないか、と私は感じていた。

自己を何らかの形で損なう可能性のある(正確にいうなら、可能性があると当事者が自覚している)他者の存在に対する恐怖

自己の価値の低下の恐れ(またはその実感に対する不満)

自己の価値の正当性の担保の必要性の実感

”自己ではない存在”としての他者に対するネガティブな規定(排除行動の理由の設定)

排除、相手を損なう行動

恐怖という力がこれまでに人を動かし、意識的にも無意識的にも、他者をネガティブに規定し、生きにくくしてしまう。

悪いことは、実は暴力によって起こるのではないかもしれない。

暴力は既に、恐怖の結果であって、悪いことの裏には、もしかしたら恐怖という力が糸を引いているのかもしれない。

このような文章を書くと、恐怖から他者をネガティブに規定して他者を損なう行動を起こした人々は、悪者であるかのように聞こえてしまうかもしれない。私は自己を脅かす自己の正当化のために他者を規定するという行為は、良くない人との向き合い方だと個人的には思っている。それは、その人を見て、知っていこうとする向き合い方ではないから。でも、人間の遺伝子に生物として種の存続が組み込まれている限り、恐怖の力の影響力は、想像以上に大きいのだとも、思う。

例えば、新しいコミュニティに入ったら、以前までの方法は通用しないかもしれない。そんな時、コミュニティのあり方自体に批判的な意見を持ってしまい、自分から壁を作ってしまうこともあるだろう。
会社で仕事が上手くいかなくて、関係のない彼に冷たく当たってしまうことだって、時にはある。うん、ある。

きっと、人が自分の価値を何らかの形で感じることができなければ、生きていくことができないなかで、そして、人生が必ずしも自分の身の丈に合った環境を用意してくれるわけではないなかで、私たちが恐怖から逃れ続けることは難しい。
つまり、私たちは知らず識らずのうちに、自己を正当化する必要性に迫られ、時に周りをネガティブに規定してしまい、反省したり、しなかったりしながら生きている。暴力や悪いことを起こす悪者がいるのではなく、私たちは平等に恐怖と向き合いながら、悪者になる可能性のある社会の中で生きている。

暴力は、よくないことだ。悪いことだ。

それは、私の幼い頃からの意見として変わらない。それは、私が暴力による傷の痛さを幼い頃から知っているからだろう。
でも、その悪い暴力、の裏にある、恐怖に震える心も、きちんと見つめられる人間でありたい。そしてもし、自分がだれかを、何らかの暴力で傷つけてしまうことがあったなら、自分の怯える心もきちんと認めてあげたい。

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