折原臨也とガイ・リッチーの新作(ジェントルメン)

 実は十代の頃はそんなにアニメを観ていなかった。家族に一人も「オタク」がいなかったからだ。両親の中でのオタクのイメージは、ミニスカメイドを信奉し、ネルシャツをジーンズにインして秋葉原で踊り狂う瓶底メガネのニート集団で止まっていた。そういうわけで「涼宮ハルヒの憂鬱」を初めて観たときの感動を私が家族と共有することはなかったし、ガンダムSEEDはパソコンの小さな画面で、隠れてこそこそと見ていた記憶がある。

 一方で、映画オタクをするには最高の環境の我が家だった。リビングのテレビはありとあらゆる有料プラットフォーム(この時代なのでHuluやNetflixではなくて、スカパー!やWOWOW)とケーブルテレビに接続されていて、FOXもムービープラスも見放題だった。

 映画──特に洋画を、好きになるのに理由なんていらなかった。娯楽に飢えていただけなのかもしれない。ただ明確に、とりわけこの監督が作る映画を私は好きだと感じたあの瞬間のことは今も鮮明に覚えている。

 彼の名前はガイ・リッチー。その頃の代表作は「スナッチ」「ロック・ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」そして「ロックンローラ」だった。

 彼はこの後、英米合作の「シャーロック・ホームズ」というアクション超大作を世に送り出して一躍有名になるけれど、このときのインタビューで、「でもあなたのホームズはアメリカ人(「アイアンマン」で薬物問題から返り咲いたRDJが演じていた)ね」という皮肉なジョークを投げられて笑っていたのを覚えている。

 そう、彼はただの映画監督じゃなくて、イギリスの映画監督だった。「ロックンローラ」も「ロック・ストック~」も、ロンドンのアンダーグラウンドを舞台にしたクライムアクションフィルムだ。彼ともう一人、ダニー・ボイルという映画監督が、私の中でイギリスという国の文化を特別なものにして、英米演劇を学ばせ、留学までさせた。

 休日にロンドンから電車に乗ってエジンバラの街に一人で乗り込んで、「トレインスポッティング」の冒頭のシーンの通りにプリンシズストリートを走り抜け、角を曲がってカルトンロードに駆け込んでみた。それが確か十代最後の歳の頃。

 さて、二十歳を過ぎると私はもう実家にはいなかったので、いくらでもアニメを観られた。Netflixで放送当時に観られなかった「デュラララ‼」の一期を観る。めちゃくちゃ面白い。原作者の成田良悟がガイ・リッチーのファンであることを知る。めちゃくちゃ納得する。

 ただ一体何に納得したのかと訊かれると説明が難しく、「群像劇」であることとか、「池袋」や「ロンドン」といった特定の土地柄に拘りを見せているところとか、それくらいの要素をぽつぽつと上げることしかできなかった。

 時は変わって現在。ガイ・リッチーの新作「ジェントルメン」が日本でもようやく公開されたので、本日観に行ってきた。いろんな意味で待望の一作だ。「シャーロック・ホームズ」以降、ガイ・リッチーは最早イギリスの秘宝的映画監督ではなくなってしまって、「キング・アーサー」が大コケする頃には、「いいからロックンローラの続編を撮ってくれ」という呼び声も高かった。

 コードネーム U.N.C.L.E. のデキに文句があるわけではないけれど、それでもやっぱり昔ながらのロンドン・クライムアクションをまた観たいとオタクは思ってしまうものだ。そんな厄介なファンの要望に応えてくれたのかどうかはわからないが、この「ジェントルメン」は主演こそアメリカ人のマシュー・マコノヒーだけど、彼の演じるミッキーがイギリスに渡って大麻ビジネスで一財を築いたという設定。そして展開されるのは「パルプ・フィクション」的な時系列操作を多用したクライムアクション。「はいはい、俺のこういうの好きなんでしょ。しょうがないな、お待たせ」とニヤつくガイの顔がスクリーンの向こうに透けて見える!

 ──というのは被害妄想だけれど、この新作はもう十年以上前の映画の続編をしつこくせびり続けるファンの我儘を完全に叶えてくれた。本当にありがとうガイ・リッチー。コリン・ファレルはかっこいいし、最高。知ってたけど。コリン・ファレルは私が小学生の頃からずっとかっこいい。何故だ。あと彼が主演のSWATというアクションムービーは私が初めてジェレミー・レナーという俳優を見て、俳優の名前を自発的に調べるということを覚えた映画で……(キリがないので以下、割愛)。

 さて改めて見直してみると、成田良悟とガイ・リッチー、両者の作品に共通して流れているのは、「カオスと偶像化の美学」であるように思えた。

 ガイ・リッチー、そして彼のかつての相方のマシュー・ヴォーンの映画には、緻密に組み立てられたストーリーをかき乱すファクターとして、とんでもないカオスが登場することがある。たとえば、急に突っ込んできた車に超重要な人物が撥ねられてあっけなく死亡するとか、マフィア同士の熾烈な縄張り争いが、一人のマヌケなチンピラの乱入によって思いもよらぬ方向に転がっていくとか。

 勿論そんな超偶然の要素も含めて、脚本は緻密に構成されているのだが、途中にそうした秩序とは無縁なカオスが織り込まれているにも関わらず、最後のシーンではまるでそうなるのが必然であったかのように勝者が座っている。彼が生きてその椅子に座っているのは突き詰めると単なる偶然の積み重ねでしかないのに、結果的な勝者はその瞬間に絶対的な勝者に偶像化される。

「デュラララ‼」において、折原臨也という狂言回しがときに全知全能の操り手として描かれるように。

 ガイ・リッチーの新作映画を観た! という日記でした。

1本の記事を書くのに大体2000~5000円ほどの参考文献を購入しているので完全に赤字です。助けてください。