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石ころの価値

娘が1歳7ヵ月を過ぎたのですが、休日の晴れた日、特に出かける予定が無い日は近所の散歩や公園に行くようにしています。
娘が歩ける前からベビーカーや抱っこひもで公園に出かけていましたが、頻繁に行くようになったのは娘が家の中でまっすぐ歩けるようになってからです。
大人にとって近所の小さな公園はそれほど刺激を与えてくれる場所ではないかもしれませんが、小さな子どもにとっては、家の中では体験できないことが山のようにある、とても魅力的な場所ではないかと思います。

娘と2人で公園に行くと、まず彼女は、遊具や落ちているカラフルなゴミなどに目が行くのですが、時間が経つにつれて足元をよく見るようになります。
落ちている枝や草、花、石ころに興味を示し、見て触って、拾えるものは拾って大事に手に持って歩き始めます。
特に娘の小さな手に収まるちょうどいい大きさの石ころは、家に帰るまで娘の大切な何かとなり、家に帰るまで離しません。
「てて(手)あらおう、これは預かるね」と言って、半分無理やり娘の手から取ることになります。

その石ころ、娘に拾われ、小さなかわいい手に握りしめられ、我が家までやってきました。
ちょっとした時間ではあるけど、公園で拾ってから家に着くまでの時間、娘にとっては離したくない、大切な存在になりました。
色、感触、味。
世の中に数えきれないほどある石ころ、その一つであっても、こうして人1人にとって、たとえ一瞬でも大切なものになるんだな、と考えさせられます。

そんな娘と石ころを見て、ちょっと拡大解釈してみることがあります。
石ころですら(と言ったら、石ころに申し訳ないですが)、これだけの価値がある。
娘に拾われて大事に握りしめられて我が家にやってきて、私に感謝され(笑)、最後にnoteに書かれる。

存在意味が無い、自分は何をしているんだ、自分には価値があるのか、世の中には悩んでいる人が数多くいて。
何かと比べるのはあまり好きではないのですが、石ころですらこんなに価値があって。
自分もここにいるだけで、とても価値があるんじゃないか、そう考えるとふと楽にはならないかな、と。
価値という言葉も実はあまり好きじゃないけれど、
私たち1人1人はそこにいるだけで素晴らしい存在ではないかなと。
これは心の持ちようの話で、もし悩んでいる人がいたらその人の中に閉じた話になってしまうので、ちょっとしんどい。
逆から考えると、「私」から他者の「あなた」を見るとき、接するときも、
「となりにいるあなたは、そこにいるだけで素晴らしい存在」、そう考えることができれば、もう少しだけやさしい世の中になりそうな気がしています。

目の前にいる人に対して、ただそこにいるだけを肯定すること。他者に対して何かを求めすぎていないだろうか。
存在を肯定して、挨拶だけでもいい、ただ声を交わす、それだけで救われることもあるよなと。
そんなことを考えながら、自分の周りを少しでもやさしい世界にしたいと思う今日でした。

娘に大切に握りしめられた素敵な石ころは、数日後、地球に帰しておきました。
では。

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