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助け合いという名の嫌がらせ。

本日の記事は嫌がらせです。
気分を悪くする人がいるでしょう。もっとも、私は往々にして読者の気分を害する内容を投稿しているので今更の警告かもしれません。


ただ、本日のテーマである「干渉」は、それ自体が嫌がらせの側面を持つと思っているのでちょうどいいかと。
百聞は一見にしかず、さっそく干渉してみましょう。



先日、女三宮さんの以下の記事を拝読いたしました。興味深かったのでご紹介させていただきます。


特に以下のくだりに震えてしまいました。私とはあまりに違う価値観をお持ちなので……。

ていうか干渉を嫌うなよ。なんで自己開示できないの?やましいことでもあるの?まで思う。
(中略)
私は友達と最近買った服があれば商品のスクショを送り合うし、母親から今日食べたもの、予定、デートの話、何聞かれてもオッケー。


スクショを送り合うとか、母親との関係が密だとか、女性だからこそかな? とも思いましたが、私のような人間が自己開示を嫌っているという指摘はその通り。厳密にいうと自己開示そのものがどうというより、「私の自己開示に対する相手のリアクションに辟易する状況を避けたい気持ち」が根底にあるのですが。その点、noteで書くエッセイなんかは一方的なので楽です。



文中に「相互扶助」というワードが出てきて、以前読んだ内田樹著の『下流志向』(の中のリスク社会について言及している第二章)を想起しました。


リスクヘッジとは個人で成し得るものでなく、「生き残ることを集団的目標に掲げる相互扶助的な集団」でのみ成し得るという話。

著者の内田氏は映画『浮雲』の一幕――

戦地からの引き揚げ者である主人公が当然の権利のように義兄の留守宅に上がり込み、マフラーや蒲団を借用する

これを例に挙げ、昔の日本人が経験則から受け入れていたであろう「迷惑のかけ合い」という形での相互扶助の存在を指摘します。


これを読んだ時も、私はやはり震えました。
相互扶助とはつまり相互干渉ですから。こちらは自己決定の自由を確保するために他人への干渉を避けているのに、「助け合おうぜ!」なんて突然肩を組まれたら泣きます。

必要ない人からの干渉を嫌がる気持ちは非常にわかるけど、好きな人には干渉された方が良いな。

――と女三宮さんはおっしゃいますが、はたして自分が相手に必要とされているか否かをどう判断するのでしょうか。
恋人関係なら確かに問題なさそうです。それ以外でも、長い付き合いを経て慎重に見極めるなら一向に構わない。


けれど実際、相互干渉を是とする人間は大抵そんな慎重には動きません。「(ピンチの時)公助に拾い損ねられたら死ぬしかねえや」と一応開き直ってみせている私のような人間と違い、彼らは是が非でも生き残るためにできるだけ多くの仲間を四六時中欲しています。だから相手の意向など基本無視して肩を組もうとするのです。こちらが嫌な顔をすると逆上することさえある。
これは助け合いを大義名分にした一種のエゴイズムであり、嫌がらせと呼ぶべき代物です。


そして、女三宮さんにとって間違いなく「必要ない人」である私が、記事を紹介するという大義名分のもとエゴを爆発させた嫌がらせがこの記事なのでありました。


私の「干渉」は、皆さんの目にどう映りましたでしょうか?