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褒めて伸ばせというけれど


模型を褒めるっていうことが雑誌の特集になるくらいに褒めるっていうことが重要視される今日この頃。
でもそれ、ちゃんと褒めてますか?って思うことが多々ある。褒め言葉を並べてるだけで見当違いなことを言ってるなあ、ダメじゃんって。
ところがこれ、特大ブーメランだったのだ。

まあ、作り手が自覚していない美点を見つけ出して評価するっていうのは、まさに評論、批評の醍醐味というか面白みだと思うんだけど、いざやろうとするとかなり大変。某誌で人様の作品にコメント付けさせてもらったりしたけれど、これ、物凄く疲れた。
その時は作品をひたすら見た後に製作文を読ませてもらって、どこに注力したのか何に一番興味があるのかを推測して、そこに読者が興味を持ってくれる事を意識した賛辞を呈したのだけれど、ある意味模型を見ただけで褒めてる訳じゃなかったので少しズルをしたなと。
模型を見ただけで作者の一番見せたい事を把握して言語化するのは「ここで作者の考えていることを書きなさい」って国語の問題に近い。余談も余談だが長文読解は好きだった…。
模型の場合は言うなれば鑑賞力、見る力というヤツが必要だと痛感した仕事だった。

自分は何をするにも「基準点」が必要だと思ってるところがあって (まあ悪癖のうちだとも思うけど) 褒めるというか評価するにも、まず基準が明確であるべきだと思っている。そうでないと公平性に欠けるし、いきなり「自由でいい」って言っちゃうとなんでもありになって、それでは褒めることも出来ない (評価の必要がない) ってことになる。
閑話休題、テクニカルな部分、例えば直角が出ているとか表面の磨きが綺麗とか、そういうのは基準としてわかりやすいし、他人との共有もやりやすい。
困るのは芸術的とか美的センスとか言われる感覚的な部分で、これはどうしても主観的にならざるを得ない。配色やトーンコントロールについてはセオリーがあってシステムとしてある程度確立しているのでそれを基準にできるんだけど、そこから逸脱している部分にこそ作り手の個性や主張があるわけで、それを見逃さずによりよく解釈して評価する (褒める) ということがしたいんだけど、そこに他人と共有できる基準を設けるのは難しいよねえと。基準が共有できないということは「それ、ちゃんと褒めてますか?」って思われるってことなので、最初に戻ってこれぞブーメラン。
個人対個人でなら基準の共有とか要らない、俺はここがいいと思う!で済むんだけど、雑誌とかコンペティションの場合にその態度はやや傲慢じゃないかい?って思うのは気にしすぎなのか。絶対評価にせよ相対評価にせよ評価基準は明確でないと公明正大とはいえまいと思うんだ。

いやあ、批評家って嫌われやすいけど、いざちゃんとやろうとすると物凄く大変なんだな、って思ったというおはなし。


ところで。
折れたり曲がったりしない強靭な刃物を作る時には、鋼を折って叩いて打ち伸ばすんだ。




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