生きていること、を知る

少し不安になって、右手を左胸にあてる。布越しでも体温が感じられるくらいに隙間なく触れると、ようやく、――ドクン、ドクン。振動が伝わってきた。
指先から伝わる鼓動に、私はやっと安心してひと息ついた。
大丈夫、心臓はちゃんとここにある。ここでちゃんと動いている。そう思って。

小学生くらいの頃から、ずっとそうだった。
ことあるごとに心臓の音が聞こえるのを確認して、ちゃんと聞こえるとひどく安心した。時にはなかなか鼓動が見つからない日もあって、そういうときはつい、心臓がどこかにいってしまった、と慌てふためいてしまう。
心臓が突然身体から落っこちてしまうことなんかない。そんなことはわかっている。そもそも動いてなかったら、今こうして息ができているわけがないのだ。そんなことはとっくにわかっていても、それでも聞こえないと不安になった。

◇◇◇

今日、なんとはなしに左胸に触れ、その鼓動に安心したとき、あれ、この癖まだ残ってたんだ、と気づいた。もうこんな癖抜けてしまったと思っていたのに。私はまだ、心臓がいなくなってしまう恐怖を抱えて生きているらしい、と知り、思わず苦笑いをした。
苦笑いするだけではとくに生産性がないので、なんでこんな癖がついたんだろう、と思い起こしてみる。が、全くもって思い当たる節がない。とくに大病を患ったような経験もなく、身近な人の死をありありと体験したこともない。
そこまで考えて、あ、と思った。
私はまだ、「死」をよく知らないのだ、と。



中学生のときの道徳の授業で、「死」と「命」について、とりわけ身近な人の「死」について、思ったことを書けとかなんとか言われた。私は本気で悩んだ。「死」を想像することはいくらでもできる。でも、それはあくまで想像にすぎなくて、本当の意味で理解することはできないような気がした。だから思うまま、未だにそれを知らないという恵まれた状況に感謝しつつ、馬鹿みたいに生きていきたいと書いた。気がする。うろ覚えだけど、馬鹿みたい、は確かに書いた。間違いない。そうして数日後、返ってきた先生からのコメントは辛辣で、体験していなくても想像することはできるでしょう、と赤ペンで書いてあった。当時の私は、ただ失望した。ああ、伝わらなかったんだな、と。
今にして思えば先生の言うことももっともで、馬鹿みたいにってなんだよ、お前が馬鹿だよって話ではある。
ただ、それを書いたときの私は決してふざけてなんかなかったし、面倒くさがって適当に書いたわけでもなかったし、もっと言えば自分に酔っていたわけでもなかった。中二病は少々あったかもしれないが。真剣に考えた上での答えだったんだと、それだけは認めて欲しかったなあ、なんて今になって思う。

自分が身近に経験していない、“知らない”ものにこそ、人は恐怖を覚えるものだ。私にとってのそれは「死」であり、「心臓が止まること」だったんだと思う。もう一つそれを思い起こせるような出来事として、小学校低学年くらいだっただろうか。息がうまくできない時期があった。それは比喩でもなんでもなく、本当に息をするのが突然下手になった。呼吸器になにか病気が、というわけでは全くない。当時の私は、呼吸をすることを意識してやってみようと、何故かそう思った。呼吸というのは大体無意識に行なうものだ。やろうと思ってするものじゃない。でも当時の私は、それがむしろ怖いと思った。意識しないでいたら、もし息をするのを忘れてしまっても気付かず、そのまま息が止まるんじゃないか、と思ったのだ。だから、意識して息を吸った。するとついつい必要以上に吸い込み、吐き出し、過呼吸みたいになって、咳き込む。を何度か繰り返した。食卓でそれをやって、喉につまったのか、と親に心配された記憶が残っている。
馬鹿馬鹿しくなったのか、それとも単純に飽きたのか、暫くしてその呼吸法はやめた。お陰で今は普通に無意識に呼吸している。

◇◇◇

死にたい、とは、なるべく思わないように、言わないようにしている。冗談で言ってしまうこともあるけれど、なるべく、なるべくは言わないように。
それが会話の中だとしたら、言われた相手も困るだろうし、そうでなくとも、言った途端に生きる活力が萎んでしまうような気がするから。
でもたまに、極たまに、生きていられるんだろうか、と思うときはある。なんの根拠もないが、30歳くらいで何かの拍子に死ぬんじゃないか、と漠然と感じた日があったくらい。多分、想像出来ないんだと思う。歳を取ることが。死期が近づいていくということが。だからこそ、何がなんだかよくわからないうちにレースを脱落してしまったほうが楽なんじゃないか、と思うのかもしれない。

死にたいとは思わないけど、生きたくないわけでもないけど、今日の夢も、明日への希望だってあるけど、それでも、立ち止まりたくなる日はあって。見えない、わからないものに、ただ漠然とした恐怖を感じて、その恐怖に呑まれてしまいそうになる日があって。

そういうとき、私は心臓に手を当てるのだ。
どくんどくんと脈打つ熱に、“今生きていること”を感じる。

私は今、確かに生きている。私が明日を見られなくなっても、私の中の鼓動は、いつだって明日を見てくれている。
それだけで多分、充分なのだ。


大変お久しぶりです。なんやかんやありましたが、とりあえず色々落ち着いたのでまた筆をとってみました。この文章のほとんどは10月だか11月だか、それくらいのときに書いたものですが、途中で終わっていたので書き足してみました。
また少しずつ、文字を書く生活にしていきたいです。

#エッセイ #日記

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