月を求めて泣く夜に

帰り道、黄金色の三日月が空に横たわっていた。
こんなに鮮やかな黄色は久しぶりに見たように思う。
柔らかに描かれた曲線に、ちょっと前、古典の授業で聞いた話を思い出した。萩原朔太郎の詩で、猫のしっぽの先で三日月が笑ってる。なんてのがあるんだよ。そう言っていたような。

まつくろけの猫が二疋、 なやましいよるの家根のうへで、 ぴんとたてた尻尾のさきから、 糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

萩原朔太郎『猫』より

調べてみたらこれだった。笑ってる、じゃなくてかすんでる、だった。ノートには確かに、笑った口元を月に例えた絵がメモしてあったんだけどなぁ。
それはともかくとしても、なんだか不思議な雰囲気の詩だ。
萩原朔太郎の作品を一部扱った評論文を授業で読んだことがある。『猫町』という作品だったような。あくまで引用としてだったけれど、評論の本筋はまるで忘れていたのに、この『猫町』のことはよく覚えていた。私が猫を愛してやまないせいもあるに違いないが、なによりその異質とも言える幻想的な雰囲気によるものだろう。あるとき、ある街角が、どこもかしこも人間のように歩く猫で溢れた猫町になって目の前に現れた。そんな感じの話。
くどいようだけど、あくまでも引用として触れただけだったから、いずれはちゃんと読んでみたいと思う。

今日の月も、糸みたいな月だった。
金色の糸。しっぽをぴんと立てた猫は残念ながらいなかったけど、その曲線は確かに笑みを思わせた。
手を伸ばしたら届くんじゃないか。そう思ってしまうくらいには、近く感じた。あの月は触れたら冷たいだろうか。それとも熱くて到底触れないだろうか。

俳句や和歌で好きな作品がいくつかある。そのうちひとつが、小林一茶のこれ。

名月を とってくれろと 泣く子かな

この俳句を知ったのと多分同じくらいのころに、似たようなフレーズが英語にあることを知った。

Cry for the moon(無い物ねだり)

月を求めて泣く。それは無い物ねだりだと。先述した一茶の歌も多分そういう意味の歌であるはずで、手に入るはずのない月を求めてしまうのはどこの国でも同じなんだなあなんて思った。

月そのものを求めたことはないけれど、確かにあの月が手のひらサイズになって手元で輝いてくれたら、それはなかなか魅力的だなと思い立つ。
太陽に、水星から海王星まで真っ直ぐに……、いや、せっかくだから冥王星もつけよう。そんな太陽系の惑星がくるくるまわる宇宙の箱庭があるなら、私はいつまでもいつまでも見つめていられるに違いない。今の痛みや苦しみ、それら全てを一切忘れて、宇宙の淵に沈んでいられる。……多分こういうのが、無い物ねだり――ひいては現実逃避ってやつなんだろう。
常に現実逃避、白昼夢に浸るダメな人間だけど、いや、むしろだからこそ、現実逃避も無い物ねだりも格別悪いこととは思わない。たまには月に焦がれて泣いたっていいじゃないか。月をこの手に収めて、その冷たさや暖かさに触れたって、いいじゃないか。

にやりと口角を上げている三日月はもしかしたら、そんな私たちの無い物ねだりを嘲笑っていたのかもしれない。
月が笑ってくれるから、私は月に泣けるのだ。きっとそうに違いない。

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