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サミュエル・ピープスの日記(3)

翻訳・解説:原田範行(慶應義塾大学教授)

【王政復古の年である1660年のつづき。ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子であるチャールズ2世は現在オランダに亡命中である。国王を迎えにオランダにやってきたイングランドの使節は、今、ハーグに滞在中。ピープスも用務に忙しいのだが、好奇心旺盛な彼は、時間を見つけてはあちこちに出かけていく。いったいいつ王が乗艦するのか、下っ端役人の彼には分からない。】

トップの画像:イングランドへ向けてオランダを出発するチャールズ2世。1660年5月24日。


5月18日

 朝、とても早く起きる。われらが海軍卿ヨーク公*が本日乗艦と聞き、ピカリングさんと私は馬車でスケヴェリングへ向かった。若さま [=ご主人さまの息子のエドワード]は医者(ピアースさん)の手に委ね、私から連絡があるまでは終日外へ出ないようにと指示した。

ヨーク公 のちの国王ジェイムズ2世(在位は1685年から1688年)。当時27歳。

 ところが風が強くて、ボートが岸辺を離れることはとても無理。われわれはハーグへ引き返してみると(ヨーク公のお越しをご主人さまに知らせるべくやってきたヨーク公お付きの紳士とペット弁務官*の二人を交えて朝食を取った後に)、若さまはデルフト*まで町を見に出かけたとのこと。そこでわれわれはみな、牧師のイボットさん*も加わって小帆船に乗り込み、その後を追いかけて(いっしょにいた乗客の振る舞いや会話は見事なもので、多くはフランス語を話していた)、途中で追いついた。しかしわれわれの船は、そこで止まることなくその先へ進み、向こうへ着くと町の鍛冶屋の少年がやって来て(彼はオランダ語しか話せなかった)、フォン・トロンプ*がたいへん立派な記念碑の下に埋葬されている教会を案内してくれた。墓碑銘はこう結ばれていた――「彼はついに生きること、征服することをやめて眠る、対英戦において、勝つことなく、しかし負けることなく」*。大理石には対英海戦の様子が戦場の煙とともに彫られており、これまで見たこともないほど見事なものだ。

ペット弁務官 ピーター・ペット。艦船製造の専門家で、国会議員も務めた。
デルフト ハーグの南に位置する古都で観光地として有名。オランダの画家フェルメールに当時を描いた有名な絵「デルフト眺望」がある。
牧師のイボットさん エドマンド・イボット。モンタギュ付きの牧師。
フォン・トロンプ マールテン・ハーペルツゾーン・トロンプ。オランダ海軍の軍人で、第一次英蘭戦争の勇士。1653年に戦死。
「彼はついに~」 原文はラテン語。

デルフトの教会にあるマールテン・ハーペルツゾーン・トロンプの墓碑銘(Memorial of Maarten TROMP in Oude Kerk (Delft))

 そこから、市庁舎の前にある大きくて立派な広場に立つ大きな教会へ向かった。大理石および真鍮でできた老オレンジ公*の壮麗な墓所を見学。多くの珍しいものの中に、天使がラッパを持ち、まるで人を呼んでいるかのように表現されたものがあった。どちらの教会にも立派なオルガンがあった。実に美しい町で、どの通りにも橋と川があった。

老オレンジ公 オレンジ公ウィリアム1世(1533–84)。スペインからの独立を指揮し、1648年、オランダは独立国となった。ピープス一行が訪れた墓所は、オランダの建築家として著名なヘンドリック・デ・ケイゼルによるもの。

 観察して分かったことだが、どの居酒屋にも、すべての部屋に慈善箱がぶら下がっている。訳を訊くと、あらゆる取引はその箱に何がしかを入れることで成立し、契約が確かなものとなるのだそうだ。

 われわれはまた養老院も見学した。貧者のためにきちんと整備されていて実に好ましい。一人の貧者がそこで死にかけていた。

 全部を見終えると、たまたまイギリスの居酒屋があったので、われわれはそこに入って酒杯をあげた。われわれは陽気に町のことを語り、また市庁舎にぶら下がっていた大きな升のようなもののことを話し合った。聞くところによれば、これは罪人に対する罰*に使うもので、これを頭に乗せて通りを歩くのだが、非常に重いのだそうだ。水路を使って戻ってくる際、美しくてまじめそうなオランダ娘といっしょになったが、ずっと読書をしていて話しかけても無駄だった。

 船から上がるとペット弁務官に会った。彼は、イングランドへの特使として出かけるハーリー少佐*と海岸へ行くところだった。

ハーリー少佐 ロバート・ハーリー。父は同姓同名(ブランプトン・ブライアンのロバート・ハーリー)。国会議員を務めた政治家で、後に王立協会のフェロー。当時は、宮廷と長老派教会との連絡役を果たしていた。

 彼らは馬車を持っていたので、私は、牧師と若さまを残し、ペット弁務官、アックワースさん*、ドーズさん*およびその友達といっしょにオレンジ公未亡人*のお屋敷へとまた出かけた。そこには、フェアファックス卿*ほか英国貴族数名もお越しであった。お屋敷の再訪は実に愉しいものであった。加えて、われわれはお庭にも行ったのだが、そこには見たこともないほどすてきな木の実があり、また、家の下にはわざわざ柱をアーチ形に組み合わせて作った見事な反響空間があり、縦笛を吹いてみたところこれがたいへんに引き立った。
 ハーグへ戻ってみると、またエドワードさま [=若さまのこと] がおらず大いに気になったのだが、ともあれ私は牧師とともに、ペット弁務官のところへ食事に行き、遅くまでそこにいた。いろいろ陽気にやったのだが、アックワースさんは妻比べなるものを始めた。各々、自分の妻が一番だと言い合うのだが、アックワースさんにはたいへん美しい妻がいるのだそうだ。もっともドーズさんは奥さんについてひと言も語らなかった。

アックワースさん ウィリアム・アックワース。ロンドン南東部ウリッジで海軍用の糧食店を経営。その「美しい妻」(エリザベス)はペット弁務官の妹で、1661年にはピープスも面会することになるが、親しくつき合う機会には恵まれなかったようだ。
ドーズさん ヘンリー・ドーズ。商人。
オレンジ公未亡人 メアリー王女。チャールズ1世の長女でオレンジ公ウィリアム2世の妻。名誉革命後にイギリス国王となるウィリアム3世の母。
フェアファックス卿 サー・トマス・フェアファックス(3代フェアファックス男爵)。ピューリタン革命の際には、議会軍を率いて数々の勝利をもたらしたが、チャールズ1世処刑に反対してクロムウェルと対立。政界から身を引き、王政復古に大きな役割を果たすことになる。アンドリュー・マーヴェルの詩「アプルトン・ハウス」(1651年作)の主人公としても知られる。

 その後、宿へ戻り、W・ハウと私は、若さまがどうなったのか*分からず、大いに心配する。就寝。

若さまがどうなったか ライデンまで出かけていたことが、翌日、判明する。

5月20日*(~21日)

 早起きをする。ピカリングさんと若さまといっしょに、馬車でスケヴェリングへ出かけたが、まだ沖に出られるような天候ではなかったので、私は宿の部屋に戻って横になった。同じ部屋にはもう一つベッドがあり、美しいオランダ人女性が一人で寝ていた*。好みのタイプであったが、彼女のところへ行くほどの勇気はなかった。それで、一、二時間、寝る。ようやく彼女は起き上がったので、私も起き上がり、部屋の中を歩き回って、彼女がオランダ風の身支度をする様子をながめ、いろいろと話しかけてみた。それから、彼女が人差し指に指輪をはめる機会をとらえてその手にキスしたが、それ以上のことをするほど大胆にはなれない。結局私は彼女を部屋に残して、仲間のところへ行った。

5月20日 この日は日曜日である。
美しいオランダ人女性が一人で寝ていた 当時の宿屋は、イングランドでもオランダでも、見知らぬ旅人の男女数名が部屋をともにすることが珍しくなかった。

 8時頃、スケヴェリングの教会へ出かけた。なかなか立派な建物で、祭壇周囲の内陣には、大きな鯨の上あご*があった。まことにもって巨大なもので、われわれの船にある長艇よりも大きかった。

大きな鯨の上あご これは本物で、1617年に捕獲されたもの。

スケヴェリングの巨大鯨。1617年捕獲時の様子(Esaias van de Velde [1587–1630)]“The Whale Beached between Scheveningen and Katwijk, with Elegant Sightseers“)

 ようやくペット弁務官がわれわれの宿所にやって来て、ボートを出すことにした。数名が一つのボートに、他の何人かが別のボートへといった具合に乗り込んで、われわれはみな岸辺に別れを告げたのである。

 ところがひどい悪天候で、われわれはたいへん危険な目にあい、船にたどり着くまでに相当の時間を要した。私を除いてみなは、すっかり船酔いになってしまった。私はずぶ濡れになったものの外にいたのである。一年のこの季節に、四日も続けてこんなひどい天候というのは久しくなかったことである。実際、わが船団はひどく危険な状態にあるように思われていたが、みな無事であった。トマス・クルー氏*も乗艦した。

トマス・クルー氏 国会議員も務めた政治家。初代クルー男爵ジョン・クルーの息子。

 ご主人さまとひと言、ふた言交わしたものの、昨晩の飲み過ぎと睡眠不足のせいもあって気分が優れず、ガウンを着たままベッドに横になり、翌朝4時の時砲まで眠ってしまった。ところが私はこれを夜8時と勘違いし、小便に起きた際には日の出を、日曜日の日の入りと間違えてしまった。

 <21日【欄外注記】>それで、ふとんなしのベッドで9時まで寝る。その後、ジョン・グッズ*が起こしてくれた。サン⹀マロの牡蛎4樽を艦長のボーイが運んできたが、これはタトネル艦長*がモルレー*から私のために送ってくれたものだ。

ジョン・グッズ ご主人さま(エドワード・モンタギュ)の従者の一人。
サン⹀マロ フランス北西部ブルターニュ地方の港町。
タトネル艦長 ヴァレンタイン・タトネル。海軍で艦長を務めた以外は詳細不明。
モルレー フランス北西部ブルターニュ地方の地域名。

 今日も終日、天気が悪かった。

 昼食後、ずっとあれこれ書きものをし、書類の整理。しばらく留守にしていたので。

 夜、パーサーのピアース氏*(もう一人のピアースと私は、エドワードさまのことで喧嘩*して以来、お互い口をきいていない)とクックさんが私の船室にやって来て、私と夜食をともにした。それから私は就寝。

パーサーのピアース氏 アンドリュー・ピアース。「もう一人のピアース」である医師のジェイムズ・ピアースの親戚。
もう一人のピアースと私は、エドワードさまのことで喧嘩 ピープスが若さまの世話を任せていたジェイムズ・ピアースは、若さまとともに勝手に外出してしまった。5月18日の項を参照。

 留守中に来ていた手紙によると、議会は、先王の処刑に際して判事の側にいた人々の身柄を裁判のためにことごとく確保するよう命令を出したようだ。法廷に出席していた役人たちもすべてである。

 国王に反対して武器を持った者はみな、恩赦から除外されるべきだとの動議を議会に出したサー・ジョン・レントール*は、議会の懲罰委員会に呼び出され、厳しい叱責を受けた後、爵位を剥奪された。宮廷では万事強硬な姿勢になっているようだ。昔の聖職者たちは、土地が戻ってくると言っては長老会議*を笑い飛ばしているが、国王や司教の土地売買は議会が認めないだろう*と言われている。議会が、そして国王が、やりたいことをするのを、今や誰も止められず、みな、なんでもかんでも従うつもりなのだ。

サー・ジョン・レントール ウィリアム・レントールの息子で、国会議員を務めた。「王に対して最初に剣を抜いた者は、王の首を切り取った者と同じく重罪を犯したことになる」という5月12日の議会での発言が、国王に反対意見を述べることと国王を処刑することとを安易に同一視する乱暴な見解であるとして、物議をかもした。ただ、ピープスの記述とは異なり、爵位は剥奪されなかったようだ。
長老会議 長老派は国王と司教を中心とするイギリス国教会には反対の立場を取るが、穏健派が多く、ピューリタン革命の初期には、クロムウェルらの独立派に対して議会において優勢を占めていた。つまり長老会議は、長老による教会主導を主張し、反国教会にして反クロムウェルの立場にあったが、それが王政復古による国教会復活によって斥けられる公算が強くなったのである。
国王や司教の土地売買は議会が認めないだろう 国王および司教側と議会が対立することになれば、革命が再び起きかねない、ということをピープスは危惧している。

 誰もが毎日、天候が回復次第、王とヨーク公の乗艦あるべしと思っている。

 今やご主人さまは何もなさらない。すべてを海軍卿であるヨーク公の意のままに、としている。だから私も、どうしてよいのか分からないのだ。

5月23日

 博士と私*はたいへん陽気に目を覚ました。ただ、昨日のこと*があって、私の片目は午前中、まだ充血していて具合が悪い。

博士と私 博士とはティモシー・クラーク博士のこと(連載2回目の注[5月14日]を参照)。船内ではピープスと同室である。
昨日のこと 前日、ピープスは国王のために自ら祝砲を発射したが、頭を出しすぎたため、危うく右目を失うところであった。

 午前中には、国王に随行する無数の人々がやってきて乗船する。

 ご主人さま、クルー氏*、その他の人々が、乗艦される王を迎えようと岸に向かった。

クルー氏 ジョン・クルー。初代クルー男爵。連載第1回(1月18日)を参照。

 そこで(サー・R・ステイナー*が王をボートにお乗せしようとした際)、ご主人さまと初めてお会いになるやいなや、陛下は、たいへんな愛情を込めてご主人さまにキスをなさったそうだ。

サー・R・ステイナー リチャード・ステイナー。海軍の指揮官で少将。「ご主人さま」(モンタギュ)の友人で、モンタギュと同様、クロムウェルからも、王政復古後のチャールズ2世からも爵位を与えられている。

 国王は、二人の公爵*とボヘミア王妃*、メアリー王女、それにオレンジ公*とともに乗艦された。乗艦される際、私は、王と王妃、それから王女の方々の手にキスをした。他の方々にはそれ以前にキスをしていたのだ。無数の祝砲がわざとばらばらに放たれた。そのほうが盛大なのだ。

二人の公爵 ヨーク公(後の国王ジェイムズ2世)とグロスター公。いずれもチャールズ1世の子で、チャールズ2世の弟。
ボヘミア王妃 スコットランド王ジェイムズ6世(後にイングランドのジェイムズ1世)とアン王妃の娘で、チャールズ1世の姉。
オレンジ公 これはオレンジ王子(後のウィリアム3世)のこと。

 終日、貴顕の方々の乗船が続き、船は超満員であった。

 食事はたいへん威儀を正して行われた。王家はご一家のみで、後部船室にて食事をされたが、その眺めは実に喜ばしいものであった。

 私は自分の船室にて、クラーク博士、クォーターマン博士*、それにダーシー氏*といっしょに食事した。

クォーターマン博士 ウィリアム・クォーターマン。オクスフォード大学出身の外科医で、後にチャールズ2世の侍医となる。
ダーシー氏 マーマデューク・ダーシー。初代ホルダーネス伯コンヤーズ・ダーシーの弟。

 今朝、ルーシーさん*も乗り込んできた。別の船に乗っている彼や彼の仲間の国王近衛兵のために、ご主人さまがワインボトル3ダースをお贈りになったのである。ルーシーさんは、ピアースさんと私を仲直りさせてくれた。

 ルーシーさん トマス・ルーシー。軍人。

 昼食後、国王と公爵は○○において*、何隻かの船名を次の通り変更なさった。ネイズビー号はチャールズ号、リチャード号はジェイムズ号、スピーカー号はメアリー号、ダンバー号(これはわが船団には同行していなかったが)はヘンリー号、ウィンズビー号はハッピー・リターン号、ウェイクフィールド号はリッチモンド号、ラムポート号はヘンリエッタ号、チェリトン号はスピードウェル号、ブラッドフォード号はサクセス号、となったのである。

○○において 原文欠落。「後甲板にある机上において」か?

 この後、王妃と王女たち、それにオレンジ公は国王にお別れを述べ、ヨーク公はロンドン号へ、グロスター公はスウィフトシュア号へお移りになった。それからわれわれは錨を上げ、いい風とすばらしい天候に恵まれて、イングランドへと帆走を始めたのである。国王は、午後の間ずっと船内のあちこちを歩き回り(それは、私が陛下に抱いていた印象とは正反対で)、実に活発で行動的であった。

 後甲板にあって陛下は、ウスターからの脱出*の話をされた。陛下が味わわれた苦難の話を聞いて私は泣き出しそうになってしまった。四日三晩、膝まで泥濘にはまりながら歩き続け、身に着けていたのは緑の上着と田舎風の半ズボン、それに田舎風の靴一足のみ。足全体が痛くて、ほとんど動かすこともできないようなありさまであったという。

ウスターからの脱出 王党派は、1651年、イングランド中西部の都市ウスターでクロムウェル率いる議会軍に敗北。6週間にわたるこの逃避行の様子は、後にチャールズ2世から正式にピープスに語られ刊行されることになるが(ピープスの原稿はケンブリッジ大学のピープス図書館に現存、初版本は1766年刊)、船上でのこの語りは、その先駆けであり、チャールズ2世がはじめてあたりをはばかることなく明かしたものとされる。

 それでも彼は、陛下を泥棒と間違えた粉屋*とその仲間たちからは走って逃げなければならなかったのだ。

陛下を泥棒と間違えた粉屋 シュロップシャーのマデリー近くのイーヴリン・ミル。

 ある家で食事をしたところ*、その家の主人は8年間も陛下のことを見ていないにもかかわらず、目の前にいる人物こそ陛下であると秘かに知るに至ったのだが、その同じ食卓にいた一人の男は、ウスターの連隊にいたのに陛下のことが分からず、王の健康を願って祝杯を上げ、少なくとも王は、目の前にいる当の人物よりも指四本分は背が高いなどと言ったという。

ある家で食事をしたところ リストル近くのアボッツ・リーにあったジョージ・ノートンの家。

 別の場所で陛下*は、その家の召使たちから議会派だと強く言われ、そうでないことを分からせるためにやむなく杯を上げなければならなかった。

別の場所で陛下は ハンプシャーのハンブルドンにあったトマス・シモンズの家。この地域は、議会派に対して激しく抵抗したことで知られ、チャールズ2世がフランスへ逃亡する際に泊まったトマス・シモンズの家は、「王の憩いの場」(King’s Rest)として知られている。

 また別のところで陛下が*宿屋で暖炉のそばの椅子の背に手を掛けて立っていると、宿屋の主人がひざまずき、秘かにその手にキスをして、どなたであるかはお尋ねしないが、今後の旅路に神のご加護がありますようにと述べたという。それから、フランスへ渡るための船*を得るのにも苦労したという。陛下は、四人の乗組員と一人の少年(それがその船にいたすべてなのだが)には自らの計画を隠しておくために、船長にだけは秘密を明かし、それでフランスのフェカン*に到達したのである。

また別のところで陛下は ブライトンにあったジョージ亭。
フランスへ渡るための船 サプライズ号という石炭船。
フェカン フランスのノルマンディ沿岸の漁港。

 ルーアン*では、陛下はたいへん貧しい身なりだったので、彼が立ち去る前に人々が彼の部屋にやってきて、何か盗んでいないかどうかを確かめたという。夕方になって私はご主人さまのところへ行って、イングランドへの手紙を書いた。われわれがまもなく帰国するとの言葉を添え、その手紙をエドワード・ピカリング氏に託した。陛下は、お一人で、後部船室にて夜食を取られた。その後、私は食事をもらい、私の船室で、昼食の時と同様、仲間四人で食事をした。

ルーアン フランス北部、ノルマンディ地域の主要都市。

 就寝時刻になってバートレット卿*(以前、私は彼のために仕事をしたことがあった)が、ベッドを一つ用意してほしいとの意を使いの者を通じておっしゃるので、なんとか骨を折り、階下の大船室でミドルセックス卿と寝てもらうことにした。しかし、どうにかこの用事を片付け、彼のお世話が済むまでにはひどく苦労することになった。

バートレット卿 これはピープスの書き間違いで、9代男爵ジョージ・バークレイのこと。同室になったミドルセックス卿(チャールズ・サックヴィル、6代ドーセット伯爵にして初代ミドルセックス伯)とともに、チャールズ2世を国王として迎えるべく上院から派遣された6名の貴族の一人。大物貴族の扱いに右往左往したピープスの苦労がうかがえる。

 再び私の船室に戻ってみると、仲間たちはまだ盛んに陛下の苦難について話をしていた。貧しい少年のポケットにあったパンとチーズをありがたく食したことなどなど。

 また、カトリック信者の家では、身を隠すため、その家にいる間しばらく、司祭のための穴倉にいなければならなかったことなど。

 その後、われわれの仲間も散会し、博士と私は床についた。上院からの使節の全員をはじめ、その他多くの人々が今、この船に乗っている。夜の間ずっと帆走を続ける。すばらしい天候だ。

5月25日

 朝までには陸地にだいぶ近づき、みな、上陸の準備をしていた。

 国王とお二人の公爵は出かける前に朝食をお取りになった。彼らの前に出されたのは船内食。船内食とはどんなものかをご覧いただくだけのためであったが、エンドウ豆と豚肉、それと牛肉を煮たものしか召し上がらなかった。

 私はダーシー氏を船室に招き、クラーク博士とともに食事をした。博士によれば、王は、ご主人さまの従者たちのためにと50ポンドをシプリーさんに与え、また500ポンドをこの船の士官や水夫たちのためにくださった、とのこと。私がヨーク公に仕事のことでお話をすると、公は私のことをピープスという名前で呼んでくださった。そして私の願いを聞いてくださり、今後便宜を図ってくださることを約束された。

 国王が何人かの人々に爵位を授けるとの期待が高まっていたが、そのようなことはなかった。昼頃、国王は(ビール*が2本マストの帆船を国王がお乗りになるよう作っていたのだが)、ご主人さまのはしけにお二人の公爵とともにお乗りになった。はしけを操船したのはわれわれの船の艦長で、ご主人さまは脱帽して王に随行した。私のほうは、マンセルさん*と王の従者一人とともに、そして王の愛犬一匹といっしょに別のボートに乗り込んだ(この犬がボートの中で糞をしたので一同大笑い、王も、また王に属するものすべても、みな他の者たちと同じであると私は思った)。われわれのボートは、国王と同時に岸辺に到着。ドーヴァー上陸に際し、王は、マンク将軍から考えられる限り最上の愛と敬意を込めて迎えられた。無数の人々が集まっている。馬に乗った者、市民、あらゆる貴顕の士などなど。

ビール サイモン・ビール。船大工。
マンセルさん フランシス・マンセル。王党派の商人で、チャールズ2世がイングランド南部のショアハムからフランスへ逃れる際にボートを用意した。

 町の市長がやってきて、彼の職位のしるしである白い杖を王に渡すと、王はこれを再び彼に与えた。市長はまた町からの贈り物として王にたいへんすばらしい聖書を差し出したが、王はこれを受け取り、自分がこの世で最も愛するものであると述べた。

 国王が中に入って立つために天蓋が用意されており、王はその中に入って立ち、マンク将軍ほかとしばらく話をされた。その後、王のために用意されていた堂々たる馬車に乗り込み、ドーヴァーに留まることなく、町を抜けてまっすぐにカンタベリーへ向かわれたのである。

 集まった人々による歓喜の叫び声は想像を絶するものであった。ご主人さまがはしけから姿を見せないので、私はボートに戻り、はしけのほうへ行った。そこへジョン・クルー氏が入ってきて、ご主人さまとひと言ふた言、言葉を交わすとまた戻って行った。われわれはまた船に戻ることにしたが、その途中、男が一人、ボートから落ちて溺れかけているのを見たので、苦労してなんとかこれを引き上げた。

 ご主人さまは喜びにあふれていた。これだけのことを、誰かに不快感を与えるようなわずかな失敗や支障もなくなしとげたのだから。自分にとってたいへんな名誉になるだろうと喜んでおられたのである。

 2本マストの帆船が追いついてきたので、ご主人さまとわれわれははしけからそちらへ移り、サー・W・バッテン*や海軍中将*、少将*とともに船へ戻った。

サー・W・バッテン サー・ウィリアム・バッテン。海軍士官で、王政復古後、国会議員となった。
海軍中将 サー・ジョン・ローソン。連載第1回の1660年冒頭、3月6日を参照。
少将 サー・リチャード・ステイナー。海軍の軍人。

 夜、ご主人さまは、トマス・クルー氏およびストークス艦長と夜食を取られた。私のほうは、この船の艦長と夜食を取ったが、彼は王がわれわれにご下賜になったものについて話していた。夜遅くなってからご主人さまが戻ってきて、私に次のようにお命じになった。つまり、後部船室の机の端、ちょうど今日王が自らの手でご自分の背丈*をお記しになったところに金箔を張り、王冠とC.R.の文字をつけるようにとのことである。そこで私はペンキ屋を呼んでそうさせた。今やそれが仕上がって、ちゃんとそこにある。

ご自分の背丈 チャールズ2世は180センチを越える長身であったため、船室の梁に頭をぶつけたのである。机の端とあるのは、すなわち王が立ち上がって頭をぶつけた場所に置いてあった机の端のことであり、彼はそこにナイフで「2ヤード以上」と一般に言われていた彼の背丈を記したのである。ドーヴァー上陸の2、3時間前のことだったという。C. R. は、Charles Rexの略で、Rexはラテン語で「国王」の意。

5月29日

 今日は国王陛下のお誕生日。

 午前中はロンドンへの手紙を書くのに忙しかった。その中の一通はチェトウィンドさん宛てでガーター勲章のために紋章官に払う手数料を教えてほしいというものがあった。ご主人さまがお知りになりたいとのことだ。

 昼食後、すべてを整え、わが妻への手紙一通と贈り物を添えて、クックさんをロンドンへ送り出した。

 その後、ご主人さまと岸辺*に下りた(これはご主人さまが私にお申し出になったこと、今月は大いに仕事をしたからね、とのことだが、まったくその通りである)。

岸辺 艦隊はすでにダウンズ錨地に入っている。そこからピープス一行は、イングランド東部ケント州の海岸沿いにある町ディールへはしけでやってきたというわけである。

 われわれは岸辺で馬を雇った。ご主人さまとエドワードさま、ヘットリー氏*と私、それから従者が三、四人――大いに乗馬を楽しんだ。なかでもおもしろかったのは、ご主人さまが私にある家を見せてくれたこと。かなりのお金をかけたものだったが、ずいぶんと荒れて不便な場所に立っている。それでご主人さまはこの家を馬鹿者屋敷と呼んでおられるのだ。

ヘットリー氏 ウィリアム・ヘットリー。ご主人さま(エドワード・モンタギュ)の遠縁にあたる友人。

 ついにわれわれは海辺のとても高い崖のところまで来た。その下を通りながらわれわれは大きな賭け*をした。この崖はセント・ポール大寺院ほど高くない、というのが私とD・マシューズ*。ご主人さまとヘットリー氏*は同じくらい、というのである。だがご主人さまは、崖の下を通りながら、棒を二本使って崖の高さをかなり正確にお測りになり、それが35ヤードを越えないということが分かったのである。セント・ポール寺院の高さはおよそ90ヤードである。そこからまたはしけへ戻った。途中、ディール*の人々が、国王の誕生日である今日この日を祝うためにかがり火を焚こうとしているのを見た。そしてご主人さまがお通りになる際、祝砲を数発放った。それで私は、彼らに酒代として20シリングを渡した。

大きな賭け ご主人さま(エドワード・モンタギュ)は、計算や測量絡みのこうした遊びを好んだようだ。ちなみに、船に戻ってからシプリーさんが持ってきたセント・ポール大寺院の本というのは、ウィリアム・ダグデイルによる『セント・ポール大寺院の歴史』(The History of St. Paul Cathedral in London, 1658)であろう。この書によると、その高さは「260フィート」(約80メートル)であり、「35ヤード」(約32メートル)を大幅に越えている。
D・マシューズ リチャード・マシューズ。ご主人さま(エドワード・モンタギュ)配下の艦長の一人。
ディール ドーヴァーの北東にある港町。

 崖のてっぺんから、わが艦隊が同じお祝いのために祝砲を発射するのを目にし、耳にした。実にいい天気で、フランス国内を20マイル以上も見渡すことができた。

 船に戻ってご主人さまは、シプリーさんを呼んでセント・ポール大寺院の本を持ってこさせた。それによってわれわれは賭けの結果を確かめたのである。その後、夜食を取り、音楽。そして就寝。

 昨晩冷え込んだせいで起きた痛みはまだ残っていて、小便の際に困っている。

 本日、国王はロンドン市にお入りになるはずだ。

 

6月8日*

 朝早く、船から降りる。ディールで馬を雇う。国王のギターとフェアブラザー*のために大いに苦労する。この男、ギターを徒歩で持って行ってくれと頼んだのに、行方知れずになりかけたのだ。

6月8日 この6月8日から6月17日にかけての日記は走り書きになっている。帰国してなお、水陸両方で用務を果たさなければならなかったピープスの多忙ぶりがうかがえる。
フェアブラザー 詳細不明。

 カンタベリーに到着。そこで食事。大聖堂とベケット*の墓の跡を見た。

大聖堂とベケットの墓 イングランド南東部ケント州にあるカンタベリーには、イギリス国教会の総本山であるカンタベリー大聖堂がある。その歴史は、7世紀にローマ教皇の指示によって建設された聖オーがスティン修道院にまでさかのぼる。1170年、カンタベリー大司教であったトマス・ベケットは、政教分離をめぐって国王ヘンリー2世と対立し、殉教して聖人に列せられた。このことにより、その後、今日に至るまで聖地として多くの巡礼者が訪れることとなった。

 ディックスウェル大佐*の馬がある兵士によって連れ去られ、それがご主人さまのところへ届けられ、ご主人さまは私にロンドンまで運ぶよう指示。シッティングバーンへ、そしてロチェスターへ*。

ディックスウェル大佐 バジル・ディックスウェル。1660年に男爵位を授けられる。
シッティングバーンへ、そしてロチェスターへ いずれもケント州内にある町。

 ヘットリー氏の食事についての間違い*。

ヘットリー氏の食事についての間違い 詳細不明。

 チャタムとロチェスターで船と橋*。

チャタムとロチェスターで船と橋 5月28日、チャールズ2世はチャタムで海軍の重要艦船を視察している。またロチェスターの石橋は、19世紀に取り壊されるまで、注目すべき橋として有名であった。おそらくはこうしたことをピープスは思っていたのであろう。

 グレイヴズエンドに到着。とてもきれいな娘にキスをした。こんな美しい女を見たのは、実に久しぶりだ。

 ご主人さまと夜食。下でペンローズ艦長*と遅くまで飲む。遅くに就寝。だがその前に、まず、明日の徒歩の服装のためにいろいろ整えた。くたびれたし暑い。ムーアさん*のベッドで寝る。

ペンローズ艦長 トマス・ペンローズ。翌日、ピープスは、ビールだけで25シリングの支払いをしている。
ムーアさん ヘンリー・ムーア。法律家で、ご主人さま(エドワード・モンタギュ)の事務取扱者。ピープスのいわば同僚。

6月10日

 聖霊降臨日*。朝起きてご主人さまのところへ。それからマーストン氏*のところへ。生意気氏*がいた。父の家に妻がいた。昼食後、妻と私は、リンカーンズ・イン*の散歩道を歩く。お祈りの後、妻は家へ、私はご主人さまのところへ。そこで少し留まった後、父の家へ。フェアブラザーさんに会う。妻といっしょに就寝。

聖霊降臨日 イースター後の第七日曜日のこと。
マーストン氏 日記原稿に記された筆記体からは「マーストン氏」と読めるのだが、これは国教会の牧師であったロバート・モソムのこととされている。
生意気氏 ダニエル・バトラー。ピープスの友人でおしゃべりなので、彼は日記においてしばしば「生意気氏」(Monsieur Impertinent)と呼んでいる。1660年1月18日に登場する「バトラー」と同一人物。
リンカーンズ・イン ロンドンに4つある法学院の一つで、法廷弁護士や裁判官の養成に独占的な権限を有している。その設立は15世紀初期にまでさかのぼり、建物の周囲には静かな散歩道がある。

【チャールズ2世がロンドンに入り、いよいよ王政復古が実現。愛する妻エリザベスとの再会を果たしたピープスだが、ますます多忙な日を送ることになる。次回は1660年の12月までを収録します。】